藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間の重量感。

社会人になりたてのころは、プログラムのコードを書いていても、数年して営業に出るようになってからも「数をこなす」ということにはあまり抵抗がなかった。
一度に1,500行もあるプログラムに挑んだり、また一日に5-6件のアポイントがあって客先を訪問したりしても、肉体的な疲労感はあったが「精神的な辛さ」はなかったように思う。
まだまだ(頭よりは)体で仕事が出来ていたのだろう。
で、何が言いたいか。
二十代に比べれば、「こなす数」については圧倒的に少なくなった。
昔は「今日約束して今日」とかそんなアポもよくあったが、今は「今日約束して再来週」とか「一ヶ月後」はざらである。
相手と会うには準備もあるし、アポの内容も重たくなっているのかもしれないが、どうも"老いた感"は拭えない今日この頃だけれど。

それにしても、精神的に何か「ずーっと頭に残ること」が若い頃よりは格段に増えている。
一言で言えば、時間がない。
恐らくはあーでもない、こーでもない、とずーっと考えるような種類のタスクが増えているのである。
多分「より深刻なこと」にかかわっているのだろう。
年をとる、というのはそういう事なのだと思う。

例えば、これからの営業の仕方をどうしよう?とか
新しい技術の製品化はどんなコンセプトが最適か?とか
これからの企業に必要な人材は?とかいうテーマにはなかなか「終わり」がない。
というかもとより「絶対的な正解もない」ような種類の話だし。

自分の生活だってそうだ。
身近に「老後について」とかも当たり前のように話題出るし、
これからの数十年をどう処するか、というような話は若い頃にはリアリティがまるでなかったのに、今は切迫感がある。
孔子の言う四十にして惑わず、とはなるほど!と思うのである。

とまれ、自分の周辺がそうした「粘着質だけれど濃い話題」になってきたのも"渋みのk
現れ"に違いなく、いよいよこれからは「残り時間の使い方」がリアルなテーマになる時代に突入したな、と実感している。
あと十年経ったらどう変化しているか、また報告します。