藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

知識とか生物とか。


そもそも物心つくまでに親に教わる言葉も。
それから学校に通うようになって教わることも。
「もともと知っていたこと」は一つもない。一つも。
でも「さくらさくら」「1+1」を習い始めて、そして家族や友人と生活しながら色んな事を経験してゆく。

自分が喋る言葉も、その意味も、自分の振舞いとか決断とかも、全部「元々自分オリジナル」ではない。
けれど、どこかからの時点で「自分の意思」は反映されているし、むしろ自分の日常は「借り物の知識よりは自分の自発」で決まっているような気がしている。

知識はどこからが自分のもので、どこまでは借り物なのだろう。

ピケティ氏のr>gの話は、一見借り物の知識のようだけれど、その本質的な意味について「自分なりの知見」を語る人は多い。
全部が借り物というわけではなく。
けれど「元々は私のものですよ」と言えるものも一つもない。
コンピュータだって、膨大にデータを入れて計算すれば、ちゃんと選択することができる。
自分たち人間は"それ"とどれほど違うのだろうか。

感情とか、環境とか思想とか、なにか「気分的な嗜好の要素」が人間なのだとすれば、人ってずい分不確定なものだと思う。
さらにコンピュータにだってそんな不確定要素を加えれば人間のようになるのだろうか。
そもそも生物って何だろうか。
(つづく)