藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

細分化の時代。


今の時代、フラット化などと言われているけれど、そもそもが極端に細かくなっている。
学校で習う学問もそうだし、知識として書籍やネットに溢れているものも、到底一人では把握などできない。
自分が暮らしている住宅や衣服や食べ物。
ましてや車や電車や航空機、そしてコンピュータ。
舗装道路一つとってもどれ一つとして「自分が作れるもの」は一つもない。
お米の作り方も実務としては知らない。
日本でいう高度成長期以降、自分たちは極端な細分化された世界にいるな、と思う。

それでいてお百姓のようにお米や野菜ならば自分で完結して作れる、ということもない。
自分は「何かの専門家である」ということが実は表明しにくいのが現代ではないだろうか。
そんな世界で、グローバル経済がどうの、イノベーションが起こっていない、などと言われるとさらに混乱する。
そんな革新的なことではなく、もっと原始的なこともすでに自分はできない存在だから。

中国でビジネスをする友人が「実は私はお金しか持っていない存在だ」と吐露していた。
いろんな「一分野」に集中するあまり、自分がどこにいるのかが分からなくなる、というのはあらゆる学問の大家からもよく聞く一節である。

専門性と普遍性。
結局「いかに細部に通じるか」ということだけじゃなく、何か自分の日常の衣食住のリアリティに関わっているようなバランスがないと、どうも「自分の位地」を見失うのじゃないかと思うのだ。
ミイラ取り、ではないがあまりに細部に入り込んでしまうと、いつの間にか生き物としての自分が見えなくなるような。

自分自身も日々細分化している一人なのだが、どこかで「生き物としての自分」を意識しないといつか「そちら側だけの生物」と化してしまうのではないかと思い始めている。
振り返ればいつの間にか「あらぬ方向に突っ走っていた」ということにならないようにしたいものである。