糸井さんのブログより。
人にとっての人が玩具であるように、
人にとっての動物も、人にとっての植物も、
人にとっての鉱物も、音も、光も、風も、
時間や偶然や事件や病さえも、
すべてが玩具である。
それらすべてを、玩具として扱うことで遊び、
快感を得ようとする、
見ることもかなわぬ大宇宙さえも、
その小ささを計り切れぬ量子などというものさえも、
さらには、あるはずだとだけ
仮定されているあらゆるもの、
そして、ないと証明されているあらゆるものまでも、
すべて、人は玩具にしている。
この玩具、というのは何だろう。
多分「興味の対象にできる」ということだ。
人は自分が捕食したり、生きるためだけの対象だけではなく、もっと外の「あらゆる物」を興味の玩具にできる。
人が人であるとはそういうことだろうか。
ある意味有り余る「知恵」のようなものが、「生きていくことだけのため」ではないことにも思考を及ばせる。
自分たちの日常もそうだ。
自分の食べていくための世界だけではなく、家族とか民族とか国とか、人類とか自然とか、地球とか宇宙とか、さらにもっと先の未来とか過去とかについても、思考を及ぼす。
「余計なことを考えることができる」ということが、その種の生存のためだけではない、外部への英知なのかもしれない。
一見お節介、と言われそうな知恵の働きだけれど、人の脳が発達して何かの意味があるとすればこの部分ではないだろうか。
自分の周囲のことを気に掛ける。
この一見「おばさん的」な感覚は実は偉大な「外部の思考」なのかもしれない。
ある種が、その種以外のことも考え、全体を考えるというのが人に与えられた使命なのかもしれない。
そう思うと人間というのは、なかなか洒落たやつらなのではないだろうか。
・これは思考実験のひとつとして書くものです。
「人間は考える葦である」だとか、
「万国のプロレタリアよ、団結せよ」だとか、
「神は死んだ」だとか、いろいろありますが、
こういうことばの大元にあるのは、
「こういう視点で見てごらんなさい」ということです。
そういうのと同じように、ひとつの視点として
考えてみたことがあります。
ぼく自身が、この考えに浸っているかどうかについては、
まったく別のこととしてとらえてくださいな。
では‥‥。・人にとって、あらゆる対象は玩具である。
人の前に現れる人は、玩具である。
人の前に現れない人も、玩具である。人は、人を玩具として扱うことで遊び、
快感を得ようとする。
玩具には歓びの玩具だけでなく、
悲しみの玩具も、苦痛の玩具もある。人にとっての人が玩具であるように、
人にとっての動物も、人にとっての植物も、
人にとっての鉱物も、音も、光も、風も、
時間や偶然や事件や病さえも、
すべてが玩具である。
それらすべてを、玩具として扱うことで遊び、
快感を得ようとする、
見ることもかなわぬ大宇宙さえも、
その小ささを計り切れぬ量子などというものさえも、
さらには、あるはずだとだけ
仮定されているあらゆるもの、
そして、ないと証明されているあらゆるものまでも、
すべて、人は玩具にしている。人にとっての、最大の玩具は、
おそらくじぶん自身ではある。・玩具とか、遊びとか、不思議なものですよねぇ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
用事のないことを考えたり書いたりする遊びをせむとて。