藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

変わらない自分。

昨日「成功した人の体験や失敗談を聞いてもすぐに身につくものではない」という話を書いた。
自分の知る限りでも、非常に頭の回転が早く、驚くほど賢いのにどうも「地に足のつかないタイプの人」って割といる。

「どうすりゃいいの?」「これでいいか」というまあ言えば"各論"にばかり追われて、本質的に「そもそも何が発露か」とか「遠い将来にも相応しいこと」とかいう視点がまるでない。
賢い人の悲劇である。

いかにホワイトカラーなどと言っても仕事の原点は変わらない。
技術や知識が集まって先行してしまうと、「そっちの世界での議論」に長けて「自分はいっぱしの社会参加をしている」という気になるのだ。

過去の経験や失敗や、他人の成功談をいくら分析して知識を得ても「そこから自分の手で試行錯誤」しないでそれらが身につくことってないだろう。
「血肉にする」とはよく言ったものである。

借り物の知識を血肉の経験に。
できれば自分のものになる。

ほぼ日刊イトイ新聞
・「どういうところが、いちばん苦労しましたか?」
 という質問は、ほんとうに多い。
 ぼく自身も、いろんな場面で何度も訊かれてきたし、
 ぼくが人に訊いていることもあるだろう。
その質問には「あんがい、苦労してないんですよね」
 と答えてはいけないような雰囲気があって、
 とりあえず無難に「すっごく寒い場所だったんで」とか、
 「なかなか、これというかたちにならなくて」とか、
 それらしいことを言うことになる。
苦労したところを、あえて探せばいくらでもあるだろう。
 ただ、そこが重要だとは思えないのだ。
 なにかができあがったときに、
 「こんなのができた。見てくれ」という気持ちがある。
 わぁとか、ううとか、ひゃーとか言ってほしいのだ。
 いや、じっと黙りこくってしまう反応もうれしいかな。
 どちらにしても、見てほしい、味わってほしい。
 見えるように感じられるようにつくったものを、
 まずはたのしんでほしい、というのがいちばんだ。
 だけど、それより先に「どこが苦労だったか」という
 楽屋裏の話を訊きたがるパターンがとても多い。
なにか、ここだけの特別な情報を知りたいのかなぁ。
 たしかに、そういうものは商品価値がありそうだから。
 でも、ほんとはひょいっと口で言えるような情報は、
 それほどの価値なんかないよね。
 苦労している人、なにかで大変な思いをしている人、
 そういうものの話が、けっこう人は大好きなのかな。
 「ああしてへらへらしてるけど、実は苦労している」
 というと、なんだか認めてやりたくなるのかしらね。
 そういう意味では、「苦労してないです」と
 しれっと答えてしまうのは礼儀知らずということなのか。
なんて書きながら、ぼく自身はインタビュアーとして、
 どれくらい「苦労しましたか」を訊ねたかなぁと、
 思い起こしてみたのだけれど、たぶんすごく少ない。
 逆に相手が「苦労話」をしはじめたりすると、
 「あぁ、そりゃぁ大変でしたね」と流してしまいそうだ。
 たぶん見たいものが「苦労」じゃないからなんだろうね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「苦労」を観賞したがると、なにかが見えなくなるよね。