藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

成功談に成功はなく。

ほぼ日より。

だけど、それより先に「どこが苦労だったか」という楽屋裏の話を訊きたがるパターンがとても多い。

自分の本棚を見ると、ビジネス書に次いで「成功の哲学」とか「〇〇の戦略」とかいうのが多い。
その人の本棚を眺めると人柄がわかる、というけれど(汗)、多分「どうやって苦労して、そして成功したの?」ということに自分は相当関心があるらしい。
そんなことを聞いてるよりもコツコツと努力しなさいよ、と我が身に言ってやりたいけれど。

失敗談も成功談も、どちらも聞いてみたいのが人情というものだ。

それにしても、これだけ多くの経験談を見聞きしても、それで自分が変わったな、という実感はほとんどない。
よく「一冊の読書で一つでも心に残ることがあれば良い」という風なことを聞くけれど、多くの経験を見聞きすることと「自分の行動が変わること」ということには大分距離がありそうだ。

しかも伝聞した経験と全く同じもの、って多分ほとんどないから「反対を押し切り、徹底的に耐え抜いて続けた」というような一節も、それだけ聞いて自分になぞらえるというというのは無茶なことである。

で結論。

結局そうした経験談的な話は、細部でなくその人の思想とか哲学とか美学とか信心とか、そういう「人格の核心」のようなものに収斂されてくる。

つまり成功談とか失敗談とか「具体的なもの」はどんどん抽象化され、本質を問われ、結局「ビジネスとか生きる上での心情」みたいな話になってくる。
松下翁の遺訓、とか盛田昭夫の残した言葉、とか、結局そうした精神的なところに帰ってくるのだ、ということが最近わかってきた。
実社会で拙速に適用できるハウツー、なんてほとんどないのでした、というお話でした。

ほぼ日刊イトイ新聞

・「どういうところが、いちばん苦労しましたか?」
 という質問は、ほんとうに多い。
 ぼく自身も、いろんな場面で何度も訊かれてきたし、
 ぼくが人に訊いていることもあるだろう。
その質問には「あんがい、苦労してないんですよね」
 と答えてはいけないような雰囲気があって、
 とりあえず無難に「すっごく寒い場所だったんで」とか、
 「なかなか、これというかたちにならなくて」とか、
 それらしいことを言うことになる。
苦労したところを、あえて探せばいくらでもあるだろう。
 ただ、そこが重要だとは思えないのだ。
 なにかができあがったときに、
 「こんなのができた。見てくれ」という気持ちがある。
 わぁとか、ううとか、ひゃーとか言ってほしいのだ。
 いや、じっと黙りこくってしまう反応もうれしいかな。
 どちらにしても、見てほしい、味わってほしい。
 見えるように感じられるようにつくったものを、
 まずはたのしんでほしい、というのがいちばんだ。
 だけど、それより先に「どこが苦労だったか」という
 楽屋裏の話を訊きたがるパターンがとても多い。
なにか、ここだけの特別な情報を知りたいのかなぁ。
 たしかに、そういうものは商品価値がありそうだから。
 でも、ほんとはひょいっと口で言えるような情報は、
 それほどの価値なんかないよね。
 苦労している人、なにかで大変な思いをしている人、
 そういうものの話が、けっこう人は大好きなのかな。
 「ああしてへらへらしてるけど、実は苦労している」
 というと、なんだか認めてやりたくなるのかしらね。
 そういう意味では、「苦労してないです」と
 しれっと答えてしまうのは礼儀知らずということなのか。
なんて書きながら、ぼく自身はインタビュアーとして、
 どれくらい「苦労しましたか」を訊ねたかなぁと、
 思い起こしてみたのだけれど、たぶんすごく少ない。
 逆に相手が「苦労話」をしはじめたりすると、
 「あぁ、そりゃぁ大変でしたね」と流してしまいそうだ。
 たぶん見たいものが「苦労」じゃないからなんだろうね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「苦労」を観賞したがると、なにかが見えなくなるよね。