ほぼ日より。
「そのつもりになってみる」というシリーズで、
しばらく、「日本語のわからない人」になって、
暮らしてみるということをやってみようかな。
毎日「テキストの海」の中にいる。
ニュースも音楽も新聞も中吊り広告も、会社の報告書もそうだ。
文字こそが人の英知、ということらしいが「それ」に支配されている自分もいる。
だからこそその「文字」というものを「音楽のように」扱ってみる。
音楽は文字のように、あからさまには向かってこないし、だから伝わってこない。
けれどそんな風に「テキストを音として聞いてみる」ということってなかなか意味のあることではなかろうか。
言葉を聞いて、左脳(?)で理解して論理を考えたり、また右脳(?)で構造をイメージしてみたりする。
文字とか文章とか音とか音楽とか。
そんなものの日常の接し方を変えてみるのはちょっと刺激的なことなのではないでしょうか。
・外国語の得意な人にはわからないと思うけれど、
日本語しかわからない人間にとって、
外国語の文化圏というのは、無音の空間なのである。近くに「日本語しゃべり」がいれば別だけれど、
そうでないかぎりは、空港に着いたときから、
ずっと耳には「音楽」だけが流れている。
つまりその、どういう意味のことを言ってるのか、
まったくわからない会話は、ぼくには「音楽」なのだ。
英語の文化圏だろうが、中国語圏だろうが、
欧州のさまざまな言語圏だろうが、ほとんど同じだ。
ああ、これは怒ってるんだろうな、とか、
たのしそうに笑いあってるなぁということはわかる
(ときには、笑いながら脅かしてる人だとかも
いないとも限らないから、気をつけたほうがいいね)。
じぶんのいる環境から、意味のあることばのやりとりが、
ほとんどなくなってしまっているのだ。
これは、ふだん、いつでも過敏なほど
意味を発見したり解釈したりしてて生きてる身としては、
たいへんな変化にさらされているということなのだ。必死で語りかけてくる猫や犬のことばでも、
わかってやりたいと思って聞くと、
こっちの心が苦しくなったりもするものだ。
人と人とが、せっかく交換しあっている言語なのに、
すべてが「音楽」として聞こえてくるという環境は、
お気楽なのではなく、なかなか苦しいものなのだ。外国へ、ことばがわからないままひとり旅する人がいる。
こういうのって、すごいものだと思う。
好意的に言えば、意味にとらわれない自由さが素敵だ。
しかし、ぼくは、じぶんが意味から遠ざけられた孤独は、
どうにも苦しくてだめみたいだ。「そのつもりになってみる」というシリーズで、
しばらく、「日本語のわからない人」になって、
暮らしてみるということをやってみようかな。
そしたらもう、ここに連なっている文字だって、
なにかの模様にしか見えなくなるということだぜ。
「犬になったつもりで、1時間」とか、やってみよう。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
(昨日、この一行を書くのを忘れていました。あしからず)