藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

心の土台。

自分にうそはつけない。
本当だろうか。
嘘をついていないつもりでも、自分に甘えを与えていないだろうか。
嘘は本当にウソだろうか?
ウソってなんだろう。
糸井さんは言う。

こんなことを言っても、ただのことばだ。
 ただの説教だから、聞こえないときには耳に入らない。
 ぼく自身も、若いときには、まったく聞く気もなかった。
 心がこもってようが、親身であろうが、
 ことばはことばでしかない。

言葉はつまり、「響く心」にこそ反応するものだ。
だから、不良少年に真っ当なことを言っても響かない。
言葉は言葉でしかないから無力なときにはとことん無力だ。
一方、そんなフニャフニャの言葉が時には鋼のようになって相手に突き刺さったりもする。
相手の人生を変えたりもする。

ということは矢のように降り注ぐ言葉よりも、受け手の心の状態こそが重要だ。

言葉の弾を磨いて準備するよりも、心の状態を気にかけること。
いろんな言葉の"矢"をある時は柔らかく、ある時は深く受け止めるような「受け手のこと」を考える方が大事なんじゃないだろうか。

そしてそれは、多分年には関係ない。
老人でも豊かな心の土壌は持てるに違いない。
言葉より心。
人間ってなかなか複雑だ。

ほぼ日より。
よく「じぶんにうそはつけない」と言われる。
 こどものころは、その意味がまったくわからなかった。
 そもそもじぶんのことなんだから、
 「じゃ、そういうことで‥‥」と、ごまかせば、
 じぶんは許してくれるじゃないか、と思っていた。
 
 「じぶんのいちばんの敵は、じぶんだ」というのも、
 そんなことはないだろうと思っていた。
 戦いというのは、じぶんとだれか他人がやるものだから、
 じぶんは敵じゃないだろうと、思っていた。
 「じぶんに負けるな」という励ましの意味も、
 もちろんわからなかった。

 じぶんが、じぶんにうそをつこうとする。
 じぶんのついたうそを、じぶんが許そうとする。 
 じぶんがじぶんを誘惑する。
 じぶんがじぶんをだめにする。
 
 そういう弱さがあるからこそ、人間なのだとは思う。
 でもね、そういう弱さは、もっとじぶんを苦しめる。
 なんとか、新しい試合をはじめられるのに、
 なにかをうらんだり、なにかを責めているうちに、
 光の射す方向に顔が向かなくなっていく。
 
 「生き直す」ときの、じぶんの歩みのたよりなさだとか、
 人びとの嘲りだとかばかりが気になって、
 過去に向ってこぶしをふりあげたり叫んだりする。
 そこまで含めて人間なのだということは、知っている。
 
 こんなことを言っても、ただのことばだ。
 ただの説教だから、聞こえないときには耳に入らない。
 ぼく自身も、若いときには、まったく聞く気もなかった。
 心がこもってようが、親身であろうが、
 ことばはことばでしかない。
 
 「そういえば、どこかのだれかが、
 じぶんにうそはつけないとか言ってたよな」と、
 唱歌のように憶えてもらえればいいと思って、
 こんなことばを書いているのだろうか。
 ことばは、まことにことばでしかないのだけれど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そうだ。鏡のなかには、たいていの答えが詰まっている。