藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分も若かった。


森田真生さんと並んで大ファンのジェーン・スーさんのコラム。
休日をどう過ごすかで、自分がわかる。

(前略)
こういう場合には「なにもしない贅沢(ぜいたく)」という言葉を採用する。
土日の両日が休みだったら、どちらか一日は文字通りなにもしない。

なにもしない贅沢を採択した日は一日中パジャマでいるし、まともな食事も採らない。その辺にあるものをつまみ、ベッドに戻る。夕方五時くらいになると後悔が襲ってくることもあるが、それにも慣れた。

慣れたはずの怠惰な休日だが、ここ一年は昼前になるとソワソワするようになった。なにかしないと勿体(もったい)無いのではと、焦燥感が募る。こんなことは今までになかった。

まるで歌の出だしのようだがよくわかる。

「休日に何をするかを考えること」。
自分は多分これが「老いる」ということなのだと思う。

逆に言うと休日とか深夜とか朝寝とか。
「時間をお大尽のように無限に使えること」こそが若さだろう。
夜更かしして朝寝して、ダラダラしてテレビ見てお酒も飲んで仲間と駄弁って。

そんなことに疑いを持たずにいられるのが若いってことだ。
もうとてもそんな気分じゃいられない。

今から使える時間で何ができるだろうか。
そんなことばかり考える。

休日と休息 ジェーン・スー

 休日はなんのために存在するかと言えば、それは休息のためである。当然だ。しかし、なにをもって休息とするかは、人それぞれ異なる。

 休めねばならぬ箇所も複数ある。精神と肉体だ。これを一度に満足させるのが難しい。心身ともに疲労困憊(こんぱい)のうえ、寝不足のままオールスタンディングのライブへ行けば、ストレスは解消できるが身体の疲労は取れない。肉体を休めることを最優先し家でじっとしていると、身体は休まるが気分転換にはなりづらい。

 休息には集中力も必要だ。山登りや編み物など、スイッチをパチンと入れ替えるように気持ちを切り替えられる趣味があると、平日にあった嫌なことはしばらく忘れられる。

 人に会うことがリラックスに繋(つな)がる場合もあれば、ひとりでいることが弛緩(しかん)を生む場合もある。傾向はあれど、精神と肉体の両方を満足させる休み方はその日の調子によって異なる。よって、疲れ具合をよく観察し休息の種類を選ぶ必要がある。

 つまり、休息は休息で面倒臭い。休みの日になにをしようかと考え、頭が疲れてしまったことはないだろうか。私にはよくあることだ。

 言い訳はたいてい世間が先に考えていてくれるもので、こういう場合には「なにもしない贅沢(ぜいたく)」という言葉を採用する。土日の両日が休みだったら、どちらか一日は文字通りなにもしない。

 なにもしない贅沢を採択した日は一日中パジャマでいるし、まともな食事も採らない。その辺にあるものをつまみ、ベッドに戻る。夕方五時くらいになると後悔が襲ってくることもあるが、それにも慣れた。

 慣れたはずの怠惰な休日だが、ここ一年は昼前になるとソワソワするようになった。なにかしないと勿体(もったい)無いのではと、焦燥感が募る。こんなことは今までになかった。

 まず、平日に規則正しい生活を送るようになったせいか、寝坊ができなくなった。休日でも八時には目が覚め、ノロノロと起きて水分を取りソファに座って外を眺める。規則正しい生活のせいにしたが、早起きは単なる加齢のせいかもしれない、などと思いを巡らす。

 九時を過ぎると、家の周りがやおら賑(にぎ)やかになってくる。レジャー施設の前に立つこのマンションに引っ越したのは一年半ほど前で、開園が九時半のため九時頃からちらほらと人が集まってくるのだ。

 パジャマのまま、列を作る家族連れを窓から眺める。なんと尊い人々だろう。休日の朝九時にここにいる彼らは、七時には床から出て身支度をし、朝食をとって家を出ているはずだ。

 サッとシャワーを浴びて散歩にでも出掛ければよいのに、私はいつもそのまま昼を迎える。勿体無いオバケに取り憑(つ)かれ、かといってやりたいことがあるわけでもなく、申し訳程度に洗濯機を一度だけ回す。そこでハタと気付く。私は休息にも生産性を求めていると。

 合理性や生産性を追求する平日からの解放が、休日であり休息の姿であるはずだ。充足ばかりが美徳ではない。休日の質を、出来高に求めてはいけないのだ。

 窓からの眺めが気に入っているので、引っ越しは当面考えていない。休日を活発に過ごす人々だけが見えなくなる術はないので、薄いカーテンだけでも閉めておこうか。

(コラムニスト)