藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の重心。

糸井さんのブログより。
他人に何かを「すがる」というのはしばしばあることだ。
その分軸足が自分からその人に移って「よりかかる」ことになる。
何も悪いことばかりではないが、相手にとっては負担には違いない。
人間関係なんて「すがったりすがられたり」というと演歌の世界のようだけれど、もう「他人にすがる前提」で生活するのは周囲にずい分負担をかけてしまうことに違いない。

糸井さんは、すがるのは「愛情の表現でもある」とのご指摘だが、確かに「愛情表現がいつのまにか相手にもたれかかっている」ということはありそうだ。
いつしかそれは重荷にもなる。

だからその反対は「中立」とか「自立」だ。
誰にもすがらず、すがられず。
いや「すがられても自らはすがらず」かな。
家族でも友人でも仕事関係でも、「すがらずにつながっている人間関係」というのは気持ちのいいものだと思う。
ちょっと水臭い感じもするけれど、自分の体重を自分で支えるというのは「ずっと立ち続けているため」の基本なのに違いない。
日常生活でもそうだし、精神的にもこれは大事なことだ。
いつの間にか近くの人にすがってしまっていないか。
すがっていても"それ"を分かっていないと関係は長く続かないだろう。
多くの人たちと関係しながら生活する中では大事な注意点なのではないだろうか。

・「よりすがる」ということばが、あたまに浮かんだ。
 そんなことば、あったっけ、ということさえ思った。
 辞書を見たら、ちゃんとあった。
 「からだをすり寄せてすがりつく」
 「助けてもらおうとたのみにする」
 漢字で書くと「寄り縋る」ということになる。
 
 「よりすがるってのが、いけないんだよなぁ」と、
 そんなことを思ったのがきっかけだった。
 なんにせよ、「よりすがる」がまちがいのもとだ、と。
  
 「よりすがる」がわるくないのは、
 無力なものとして神さまに「よりすがる」とか、
 赤ん坊が母親に「よりすがる」とか、
 犬や猫などが飼い主に「よりすがる」とかぐらいかな。
 それ以外は、だいたいろくなことにならない気がする。
 
 「こだわり」ということばが、いつのまにか、
 肯定的な意味で使われるようになっているけれど、
 「心がなにかにとらわれる」のが「こだわり」だ。
 「あたしはシャリにはこだわってるんです」なんて、
 ある種の自己批評として笑いながら言うにはいいが、
 それを自慢にするのはちがうだろう。
 この場合、この人は「シャリ」に
 「よりすが」っていると言えそうだ。
 シャリがあなたから逃げるかもしれないよ。
 
 わたしが、恋人に「よりすがる」だとか、
 親のほうが、こどもに「よりすがる」‥‥
 とても大切に思って愛しているということの奥に、
 じぶんが、その対象のほうに「よりすが」っている。
 そういうことが、おおいにある。

 「おれは、仕事を愛している」という人は、
 (仕事に、よりすがってはいないか?)
 「真剣に、この業界のためを思ってるんだ」
 (その業界に、よりすがってはいないか?)
 そのつないだ手を放せないのは、
 相手のためなのか、それともじぶんのためなのか。
 じぶんの足に重みをかけて、手をつないでいたいものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ただ、おそらく「よりすがる」って気持ちいいんだよねー。

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