藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

あはれと感謝。

*[次の世代に]それでも人は書く。
ほぼ日より。糸井さんのまるで詩のようなテキストをぜひ読んでもらいたい。
(毎日のブログについて)最低限、じぶんが読みながら書いていることで、
文を書いていることに絶望せずにいられるのだろうか。

そして

(読んでくれる)そのことへの感謝は忘れないようにしようと思うからだ。
何かを書く人は、なぜ書くのだろう。
最低限の自分以外の目には触れないかもしれない文章を、なぜ書くのか。
誰も読まない文章は絶望的だ。
けれどそれでいいとも思う。
 
何を書こうが叫ぼうが。
炎上しようが。
結局は自分に還る。
文章を書き残すというのは自分で自分を見る、というだけのことかもしれない。
 

12月24日の「今日のダーリン」

 
・この、ぼくの書いた短文は、
あなたが読むことによってここにあらわれる。
書かれるだけで、だれにも読まれなかった場合には、
なんにもはじまらないし、あらわれることもない。

読まれないことを覚悟して書くことも、なくはない。
しかし、まったくだれにも読まれないとは思っていない。
少しでも読まれることを期待して書くものだ。
最低限、じぶんが読みながら書いていることで、
文を書いていることに絶望せずにいられるのだろうか。
あるいは、たったひとりでも読んでくれる人がいると、
信じていることで、書くことは続けていられる。
書いたものが読まれるというのは、
実に、たいへんに幸福なことである。

ぼくは、毎日、こういった文を書き終えた後で、
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
と書くことにしている。
来てくれる、読んでくれることがあって、
はじめてコミュニケーションがはじまるわけで、
そのことへの感謝は忘れないようにしようと思うからだ。
受け手があっての、コンテンツ(出し物)なのである。

ぼくは、かつて熱帯雨林のなかでゆっくりと
飛びながら命をなくしていく蝶の映像を見たことがある。
羽搏きのひらりひらりが次第にゆっくりになって、
着地するというより、落ちて死んでいった美しい蝶。
これをカメラが撮らなければどうだったのだろうか。
そのカメラが撮った映像を、ぼくは見たけれど、
熱帯雨林のほとんどの蝶は、だれの目にも映らずに、
死んでいっているはずだったのだ。
そこになんの問題もあるわけではない。
しかし、だれかが見ること、知ること、感じることが、
あの蝶の美しい死を世界にあらわしたということに、
ぼくはなんだか気が遠くなっていた。
蝶という生きものの死を哀れんでいるのでもないし、
慈しんでいるというわけでもない。
あの儚くて美しいあのことは、
だれの目にも触れなければ、無いことだった‥‥。
いや、ただ、それだけのことなのだけれどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読んでもらえるという贈りもの、ありがとうございます。
Measure
Measure