藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

本番の極意。

ほぼ日より。

 「心配ない」ということがわかるだけで、
 人はじぶんの力を何倍も発揮できる。

音楽を再び習い始めて十数年になるのだけれど、「曲を習得すること」と「(人前で)演奏すること」の差、についてほとほと考える。
プロの人たちに聞くとそれは「メンタリティ」だという。
さらに「そういうメンタリティに持っていく独自の方法を知っている」ということらしい。
よく「演奏を楽しみなさい」という先生がいるけれど、そんなことできたものではない。
特に人前では。

「心配ない」と思えるためには、いくつもの方法がある。
「思いきりやったら、その後に続く人たちがいる」
「頼りになる人が見ていてくれる」
「わたしを愛するものがいてくれる」
「わたしの愛するものがいてくれる」
「神(などの絶対的に信じている存在)がいてくれる」
「だれよりも多くの練習をしたという事実を信じられる」

「心配ない」と思えるためには「練習」しかないと思っていたが、精神というのはそういうものでもないらしい。

「心配ない」というのはひょっとしたら「自分が自分でなくなる瞬間」なのではないだろうか。
"自分が自分が"と思う心に魔物が潜んでいるような気がした。

しばらく「心配ないために」が頭の中から離れなくなりそうだ。

・ぼくは、人からどう見えているかは知らないけれど、
 じぶんとしてはかなり心配性だと思っている。
 ただ、そのことを承知しているので、
 してもしょうがない心配については、
 本番の前にやめることにしている。
 その心配を中断するやり方が、年の功なんだろうが、
 だんだんと上手になっているように思う。

心配だか不安だかを抱えたまま、なにかをするのは、
 ものすごくむつかしいし、うまくやりにくい。
 「心配ない」ということがわかるだけで、
 人はじぶんの力を何倍も発揮できる。

今回のオリンピックでも、
 何人もの選手たちが、じぶんなりのやり方で、
 「心配ない」をつかむようすを見ていた。
 たとえば、女子卓球の三位決定戦。
 伊藤美誠選手が勝って銅メダルが決定したが、
 あのときは、次には石川佳純選手がいる、ということが、
 思いきりのいい試合をできる支えになっていた。
 さまざまな競技のなかで、そういう場面は多かった。
 男子400メートルリレーのバトンは、
 受ける選手と渡す選手が、相手の動きを信じきることが、
 すばやく確実なパスの方法なのだという。
 じぶんのことも相手のことも、信じきって
 「心配ない」というところまで練習してきたという。

「心配ない」と思えるためには、いくつもの方法がある。
 「思いきりやったら、その後に続く人たちがいる」
 「頼りになる人が見ていてくれる」
 「わたしを愛するものがいてくれる」
 「わたしの愛するものがいてくれる」
 「神(などの絶対的に信じている存在)がいてくれる」
 「だれよりも多くの練習をしたという事実を信じられる」
いやいや、オリンピックレベルの話ばかりではない。

 なにか重要な場面を前にして、
 「心配ない」とじぶんに思わせてくれるものの存在。
 それを、大切に育てるとは、どういうことなのか。
 じぶんなりに、ぼくも、もう少し考えてみたい。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「心配」が殺したりダメにしたりするものって多いよねー。