藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

たましい年齢。

*[次の世代に]一回り下?
ほぼ日より。
先日、1日に二つの会合があった。
一つは何とか経営者会議、もう一つは新規事業何とか会議。
全員スーツの一つ目にいた時は「ああー自分もまだ真ん中よりちょっと下くらいの年齢だなー」とぼんやり感じていた。
そして二つ目。
若っか。
ともかく若い。
髪は金髪、Tシャツは当たり前。
短パンにパンプスみたいな人もいる。
「あれ。俺この中で最年長じゃないか?」と思う。(多分そう)
やっぱり知らないうちに年を取っていたのだ。
 
精神は年を取りにくく、(時には若返ったりもする。恋愛とか)
肉体とのバランスに驚いたりするけれど。
つくづく「他人との比較」で認識するものなのだと思う。
いずれ死ぬ。
その文脈の中にいることを感じながら過ごさないともったいないことになりそうだ。
 
 
よく
・いま「ほぼ日」で連載中の
 「じぶんが思う、じぶんの年齢」について話している。
 じぶんがじぶんを何歳だと思っているか。
 これは、何年生きたから何歳という算数の問題じゃない。
 ぼく自身のことでいうと、正直、よくわからない。
 ある時期に、高校野球の選手たちが、
 突然、年下になってると気づいたことがあって、
 そこらあたりから、年齢というのは、
 何年いきてきたかという事実と関係ないところに、
 もうひとつあるものなんだなぁと考えるようになった。
 昨夜、テレビの番組で、多重人格の人が出ていた。
 その人は、いつでもなにかのきっかけで
 別の人格に変化するということだった。
 カメラの前で、ほんとうに自然に人が変わる。
 おもしろいのは、10人それぞれの人格に、
 6歳から30歳くらいまでの年齢があることだった。
 自己認識している年齢というのは、
 ある意味、ひとつの個性なんだなと思った。
 じぶんが認識しているじぶんの年齢のことを、
 テソーミの日笠雅水さんは、
 「たましい年齢」と名付けていた。
 その見方は、たしかにあるように思う。
 奥深いところでの「たましい」のことはわからないが、
 俗世間に生きていながらでも、
 「じぶんが何歳くらいのつもりで生きているか」
 については、よく考えたら見当はつくような気もする。
 最近のぼくは、一気に「たましい年齢」が高くなった。
 肉体的に、それを知らされることが増えたせいもある。
 それでも、実年齢よりひと回りほど若いところにいる。
 つまりは、71引く12で59歳ということのようだ。
 そうじゃないぞという科学的な事実は理解しているが、
 59歳として駆け出したり、59歳として夜ふかししたり、
 59歳として老人の悪口を言ったりしている感じだ。
 もう60歳の大台も近いので、あんまり無理はできない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
とんかつとか、ラーメン、カレー。いつまでも食いたいな。