藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

動くか否か。

*[次の世代に]何かする。
ほぼ日より。
「いまから〜をしようかな」と思っているとき、
あなたは○○○に向かっている。
が、ここではまだ歩き出してはいない。

「そろそろ掃除でもするか」とか「これって新しいサービスになるんじゃ?」という時に。

確かにそういう「動機」を無数にやり過ごしているような気がする。
特に若いころから。
そして50才とかを過ぎるとそういうことが「あまりなくなる」。
多分「終わり」が見えているからだ。
「やりたいこととやらないこと」がかなりはっきりしてくる。
時間を過ごすことに相当敏感になっているのだと思う。
 
皮肉なことだ。
当たり前だが、まるで無限にの時間があるかのごとく感じていた十代、二十代にもう少し「何か」をしていたらと思う。
当時はムダに時間を過ごすことが"イケている"みたいな気分もあった。
若者はそういうことをするから若者なのだ。(苦笑)
 
そして10年後の自分から、今の自分に言ってあげる。
「何か」をしておけよ。と
 
「いまから〜をしようかな」と思っているとき、
あなたは○○○に向かっている。
が、ここではまだ歩き出してはいない。
つまりは、「頭の中で位置についている」だけだ。
近くにあるマンガを読みはじめても、テレビを観ても、
そこにある状態は一歩も動かない。
そして、時間は早く流れていく。
「あ、もう一時間経っていたのか!」
 
「いまから○○○をする」と決めていたら、
あなたは動き出している。
「しようかな」ではなく「する」がちがうだけだ。
そうすると、出足から転ぶかもしれないし、
ちっとも進まない実感に悲しくなるかもしれない。
やめてしまいたくなることも、大いにあるだろう。
溺れる者として辺りの藁を探して掴まろうとする。
しかし、最初の位置からは、
前後左右のどっちに向いているのかは別として、
たしかに「動いている」のである。
動いているうちに、はじめる前とは景色がかわってくる。
時間が過ぎていくのが遅くて、つらいかもしれない。
だが、動き出したことで、あなたの経験値は上がっている。
 
「しようかな」は、なにも動かないで終わることもある。
「する」は、とにもかくにも、なにか動く。
「する」のせいで苦しむこともあるし、
そこから横道にそれてしまうこともあるし、
じぶんの力のなさに、落ちこむこともあるだろう。
だから、ぼくらは「しようかな」と言いながら、
テレビの画面を眺めたりポテトチップスを食べているのだ。
 
これ、いわゆるホワイトカラー系の仕事だと、
ちょっとわかりにくいことなのかもしれないけれど、
陸上競技だとかスポーツの選手として考えてみたらわかる。
「練習しようかな」は、まったく動きがないままだし、
「練習する」は、もう動き出しているでしょ?
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「やる」から考えざるを得なくなる。考えると、経験する。