藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間の空気感。

自分は学生時代はどちらかというと「一人でいない方」の人種だった。
仲のいい数人といつも一緒にいたと思う。
パチンコに行くにも徒党を組んでいた。

それが年をとってどんどん一人でいる時間が長くなった。
なんでか。
なんでか。
多分「生きること」を身近に感じるための本能的な行動なのだと思う。
友人や好きな人と、(しかも気の置けない)一緒に過ごす時間って空気のように過ごしやすい。
つまり「時間を過ごしていること」を忘れてしまうわけだ。
駅のベンチで体をくっつけあって延々と過ごしているカップルはそれだ。多分。

相手をしてくれるカウンターパートがいないと、全部自分次第になる。
「相手」に当たって跳ね返ってくることがないから、全部自発だ。
だらけるのも、勉強するのも、掃除するのも、メシを食うのも全部自分の判断だ。
「ねえお腹減らない?」がないわけで、そうすると「時間の使い方」なんかを真面目に考えなきゃな、という機会が増える。

残りの人生を、少し真剣に考える契機にできるかもしれない。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 昨日の「今日のダーリン」

・金曜日の夜に、ミーティングを終えて帰るとき、
 「しばらくお会いできませんね」と言われた。
 冗談めかして「さみしい?」と言ったら、
 「そういうの、はじめてだから、みんなが」と返事。
 そっか、たまには来る予定もあるんだけどね、会社に。

5月はひと月、ぼくは休みをとることにしていた。
 ずいぶん前から決めていたことで、
 ぼくが、会社にあたりまえにいるという環境を、
 変えようということがひとつ。
 そして、ぼく自身、ひとりであれこれに対面する時間を、
 ずっと持ってなかったので、それをしようということ。
 19年近く、ずっと「ほぼ日」に
 閉じこもっていたような気がするので、
 ぶらぶらと外に出かけてみようというわけだ。

すでに、半月分の予定は決まってしまった。
 ゴールデンウィークは、いつものように京都にいるし、
 そこではひとりじゃなくて、家族がいっしょである。
 東京に戻ってから、会社にくる日も、すでに決まってる。
 「そのミーティング、おれも入れてくれ」と、
 じぶんから頼んで参加させてもらうことにしたからだ。
 会社の来し方行く末について、合宿で話しあう日もある。
 親しい料理屋さんに、ひとりで行く予定も決まっている。
 それでも、そうとうにぶらぶらである。
 想像すると、すでにちょっとさみしいというか、
 しんみりしてしまうようなここ数日であった。

そのしんみりを身につけ直すために、休むのである。
 浜辺のにぎわいのなかで笑いあっている時間よりも、
 水平線の向こうにいくつもりで浮かんでいよう。
 そんな孤独を、ぜいたくに味わう予定の5月なのである。
 しっかりと退屈したり、さみしく腹を減らしたり、
 大尽のように温泉につかったり、うたた寝をしたり、
 とぼとぼと迷い道を歩いたり、疲れたら帰宅したり。
 そんなふうな、わがまま放題の旅の日を過ごすのだ。
 ひょいと、あなたの道ですれちがうかもしれない。
 締切りのある仕事を、どこかの駅でしてるかもしれない。
 この『今日のダーリン』についても、どうしようかな。
 書くときは書くし、書かないときには書かないのかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんか、いろんなことが変化してても、気にしないでね。