藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

常識は失わないこと。


会社勤め時代のこと。


当時最若手の営業スタッフだった自分は「ともかく会社の利益になること」を自分の職務だと思っていた。
会社のために、一円でもためになることを志向する。


そのためには、少々こちらにミスがあろうが、相手先や客先にミスはなかろうが、何が何でも自社を守ることしか考えていなかった。

そしてそれでいいのだ、と固く信じていたのである。
勢い、無理を言ったり、少々理不尽なことも相手に威圧的に交渉したり、という突っ張りが出てくるようになった



ところが、組織は変わりやすく、また人と人との関係は移ろいゆくものである。

ライバル企業にいて戦ったライバルが、こんどは有力な顧客の会社に転職する、とか。

昔の先輩が、脱サラして居酒屋を始めるとか。

昔結婚していた相手と、友人関係になることもあるかもしれない。



そんな時に。

そんな時に、結局「モノをいう」のは当人の人間性なのである。

そんな「自分そのもの」の姿勢が、その後の大きな人間関係を決めることになる、とは、当時はちっとも知らなかった。
だから、若くとも、年寄りだとも、自らの人間性に背くような人付き合いをしてはいけない、と思う。
組織のために良かれ、とその時は思っても、自分の判断に背くような行動はよくよく考えねばならない。


自分の二十代、三十代、あまたの人とかかわり合ってきたが、自分の人間性の許容範囲を超えて「契約打ち切り」とか「支払い停止」とか、「料金交渉」とかをした相手とは、その後まったく親交がない。

もう「人間性」としては「付き合う相手に能わず」と思われているのである。
そういえば、ひどい仕打ちをしてしまったなぁ、と二十年ぶりの反省。(嘆)



いかに周囲の組織のために、あるいは周囲の空気を汲んで、そして自分が組織の一員と化して苦渋の英断をしようとも、それは「自分の人間性」そのものをすり減らしていたのである。

「この追加予算を飲んでいただけないなら、今日は帰りません。しかも来週からは技術者全員を現場から引き揚げさせます」



というようなことを「会社のため」と思って平気でやっていたことのある私は、ここら辺りの人たちとは、当然その後交流はない。

人間関係は途絶したのである。



組織に属していれば、その組織のことが最優先で動かねばならないことも多い、

むしろみんながそうやって動くから、単なる個人の集まりではない、「組織でのレバレッジ」が生まれるのである。

が。

それでも。



それでも「自分の内なる感覚」に反する行動はしないほうがいい、と最近思うようになった。

自分が必ずしも「よし」と思わない結論を人に伝えるときには、その旨を堂々と相手に告げ、そこからの「組織論理の勝負」とするべきだろう。



組織のためには命も投げ出す日本人の性質だが、後々の、「結局は個人の関係」に戻ってみると意外に疎遠な感じがする。

組織の顔100%、ではなく組織のミッション50%、自分のポリシー50%、くらいのバランス感覚は持っていたものだ。




「中立」というワードでずい分長い回想に入ってしまったものだ。