藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

作家という困難。

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連休中に録りためていた映画と数冊の小説を読んだ。
面白いものも多かったが、見終わってふと「作家」のことが気になった。
邦画も洋画も、ドラマも、小説も。
どれも工夫を凝らしてストーリーが構成されている。

「起承転結」とよく言うが、もうどれが"起"なのか、どこからが"転"で、どこまでが転なのか、そして「結」というけれど、果たしてそれで終わりなのか、それがまた次の「起」につながっていたり、また「結」もはっきりとは「結」にはなっていなかったり。
そしてさらには複線のように物語が展開するものもあり、そうすると「複数の起承転結」が錯綜するわけで、まず一度パッと見ただけでは分からないものもあった。

ハリウッド映画のアクションもののように「問題→原因→解決→平和」と一直線に進んでいくのも少し凡庸ではあるけれど、あまりにも筋が複雑化してしまい、観劇の最中にはもう「人間関係と事件の背景」みたいなものばかりが気になって、喜怒哀楽の感情よりも頭の中で記憶を辿るような作品はあまり面白くなかった。

視聴者の頭を適度に刺激し(使い)、アクションで視覚的にも楽しませ、哀愁や人間味も感じさせる。
そんなことを作家の人たちは日夜考えているのに違いない。

けれどそんな作品を、視聴者に悟られず(飽きさせず)に作り上げるのは、想像を超えて大変な創作活動なのだろう、ということがつくづく想像されたのだった。

そして、さらにそのストーリーを「誰が演じるか」ということもかけ合わさってくるわけで、文学作品というのは人が作り出した最も面白いものの一つに違いないと思う。