藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

腹がっ立ったら


プログラミングは、コンピュータに対する指示のことだ。


インストラクション(instruction=命令)などという。


コンピュータは人間の書いたプログラム(多くは英語)を16進数に翻訳し、二進数で実行する。


画面にウィンドウを「表示する」とか
プリンタに「印刷する」とか
メーラを「起動する」とかそういう「仕事」をさせるために、プログラムはある。

途中で間違った命令を出すと、もちろん「間違ったとおり」に間違う。


思えば、その経験がなければずいぶん傲慢な性格になっていたような気がする。
(ここまで昨日と同じ)


どんなときハラは立つ

よくコンピュータの操作をミスしてコンピュータに怒る人がいる。
決まった使い方、を覚えずに機械に腹を立てるのはムダなエネルギーの使い方である。


相手が機械なら原因は明白なのだが。


そう思えば「腹を立てる」というのは、なぜだろうか。
約束どおりにしない。
もてなしが悪い。
頼んだものがこない。

「思うとおりにならぬ」時にハラは立つのだろうか。


ほかには、社会的に見て腹の立つこともある。
凶悪な事件の報道を見たり
汚職や偽装のニュースを聞くと、ハラも立つ。

「正義感や良心」に触れたときも腹は立つようだ。

腹立ちの構造、については少し研究するとしたい。


対人関係での腹立ち

ちょっと話題が逸れた。
日常、対人関係でハラが立ったとき、というのはひょっとしてそこに至る「プログラミング」が間違っていた可能性はないだろうか。


コンピュータのように「道具」と割り切れるものに対しては、我われは幾分、理性を働かせて「仕方ない、自分のせいだ」と思える。(少なくともエンジニアは)

が、こと「対人間」となったとたんに自分への「甘え」が出るのではないか。
もっと察してこんな風にして欲しい。というエゴ。


なんの、相手はそんなこと知っちゃいない。


こと対人関係、というのはそんな「プログラムし切れない」複雑な手順の塊なのだろう。
特に物品を扱わぬサービス業など、それだけでも「難しい」職業分類に思う。

人とうまく行かないことがあったら、「自分の書いたプログラム」を疑おう。

人だと思うと無意識に甘えるが、相手から見たら意外にエラーがあったりするのだ。


致命的なバグがシステム全体をダウンさせている場合すらある。


人間同士を結び付ける「会話プログラム」。

意外に難しい技術なのである。