藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

どちらに立つか。





最近思う。




何か新しい試みに、どう反応するか。

・できない理由を考える
・失敗したときのリスクを考える


そんなタイプと
・「やり通すための何か」を一手先だけでも伸ばそうと、考え抜くタイプ。
とまあそう言えばこっちがカッコいいが、実際は危うかったりもするが。

まあ大体の新しい試みなど、後者のタイプの「突き進む一人」が成功が見えるところまでやりぬく、というのがよくあるパターンだが。
(この「一人」がいないから、いろんなことはよく失敗する)


で、物事、やり通すつもりなら、あまり前者の意見は気にすることはない。
なぜなら前者みたいに考える人の方が多いし、話も整合性があったりする。


そこでなぜだろう、と不思議になった。

ラクなのか

まあムカつくのは、若いくせに「あれがリスクだ」「これはあり得ない」と評論家ヅラするやつらである。
年をとるにつれ、そんな感情が目立つ。


なんだか折角やる気に燃えている若者に、(別に若くなくてもいいけど)わざわざ冷や水をかけて、くさすようなこと言うなよ!と腹立たしい。
その「したり顔」が気に入らないのだ。


老人のやっかみというか、いやらしさ、みたいなものを言外に感じる。
それでいて「オレが一番分かってるんだよ」というところが、なんともあざとい。
「てやんでぇ」とか言いたくなる。


まあ、そんなにプンプンしていても仕方ない。

山をどちらから見るか

で、評論家ヅラした物言いはともかく。


ただし、新たな話には、どうしてもネガティヴ派が幅を利かすのはなぜか。


ううう。


そうか。

その方が論理的に構成しやすいのだ。

できない理由。


市場は不安定だ。
まだ前例がない。
すでに競合がいる。
カネがかかる。
売れないかもしれない。
あまりよく思われていないのではないか。
ネームバリューがない。


いちいち、ごもっとも。
かなり論理的にそういうストーリーは構築できるし、また否定しにくい。


一方、「できる理由」などいくら挙げてみても、「あくまで仮説」というメジャーを当てられてしまえば、全部アウトだ。


「できるかもしれない」と思ってチャレンジし、失敗した時のリスク。はダメージも大きい。
「どうせできないさ」と言っておいて「なにも始めない」と、リスクは「特にない。」

無難なのだ。



無難病。

最近、大企業の人と話していると特に感じる。
そう、その人の今の立場を考えると「やって失敗したリスク」は「やらずに安穏としている批判」よりもはるかに大きいのだ。


これは日本の企業がみんな「足引っ張り」体質なのではないか。
失敗したら、みんなでたたく。


何もしないほうが、リスクはより小さいわけだ。


この考え方は「ムラ社会」だ。
出る杭を打ち、「個性」を封殺する。


日本人はよほど気をつけないとそんな気質を持つのではないか。


「和」を重んじる、ということと、
「個性」を尊重する、ということは違う。


横並びでなく、個性を。
対立でなく、和を。


これが日本の最大の強みではないか。


日常の会話から、そんなことをふと思う。