藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

棋聖戦、名人戦記のまとめ。

http://sankei.jp.msn.com/culture/shogi/080623/shg0806230330000-n1.htm


気になる点を(ちょっと理解できないことも含めて)書き留めておく。
今後の自分のロールモデル、になるのかもしれぬ。

将棋界最高峰の2つの頭脳、棋聖佐藤康光(38)と挑戦者・羽生善治(37)の対決の現場に居合わせて私が見たのは、知が生まれる瞬間の厳粛さであった。


トップ棋士とは、最先端の難問に取り組む研究者のような人々なのだ、ということも肌で理解した。


そして、将棋の世界に深く確かに継承されている日本文化の素晴らしさを再発見できた。
これらのことは、日本を離れて14年になる私のこれからにとても大きな影響を及ぼすのではないか、という予感に満ちていた。

  • 『知が生まれる瞬間の厳粛さ』とはどのようなものだろう。


「孤高」とか「厳粛」などの表現から推察するに、おそらくは昔の武士や修行に入る僧のように、ストイックかつシリアスな、張りつめるような空気が周囲には満ちているのだろう。


そんな状態を日常の仕事(というか自分の追いかける「あるテーマ」という感じだろう)において、常に作り出し、追求し続けるという「繰り返し」の果てに「知の生まれる一瞬」との出会いがようやく訪れる、という意味に取っている。


  • トップ棋士が常に最先端の研究者のような性質であること


これは、囲碁将棋ジャーナルなどを見ていてもそうだし、また羽生さんの座右の銘が「怜悧」ということからも頷ける。ただし梅田さんのように生の対戦に立会い、「投了直後間髪を入れずに分析に入る」対戦者を目の当たりにした
時には、さらに大きな驚きがあったのだと思う。


で、疑問として残ったこと

  • 『そして、将棋の世界に深く確かに継承されている日本文化の素晴らしさを再発見できた。』

もう何百年もほぼルールを変えることなく継承されてきた将棋。
そこに受け継がれている精神性、作法、修行法、伝統などは自分のような一般人にも垣間見れる。


ただ、残念ながらそれを実体験できない。

自分はそんな伝統モノの基礎を習得したり、積み上げたりしていないからである。
唯一、近いもので今後の課題にできるものは「音楽」かもしれない。
(日本ルーツ、ではないけれど。)


テーマは何にせよ、長い間に培われてきた「文化」については再度じぶんなりのアプローチを、素人ながらにも何か試行してみたいと思う。
この部分、単なる感想では終わらせたくない、とも強く思った。


一読者として、なんとかこの部分に食い下がりたいのである。

「いまは知識の雪だるまを作ってるような段階です。


どんどん蓄積して、どんどん分析することで、雪だるまが急激に大きくなっている。
転がり続けていますから。


でもその雪だるまって、どこまで育つかまだ分からないんですよ。


そのデータベースがかなりの量を網羅していったときに、ひょっとすると相乗的な効果が生まれてくるかもしれませんよね。
誰も予想してなかったイノベーションが起こったり」(「歩を『と金』に変える人材活用術」、共著、日本経済新聞出版社

この部分についても同様、意味することは頭ではイメージできても、追体験はしにくい。
が、アマチュアながらにもその意図するところを追いかける姿勢は何とか作りたい、と思っている。


何だかそういう「追いかけ方」をしないと「夢うつつ」の話、になってしまいそいうで、口惜しいのだ。

ただの評論家では居たくない。