藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

誤った強化

脳が「現金」を貰う、ともいう脳の強化学習

「学習すること」にそれを求むれば、それこそ本能の赴くままに学習し、それを「快感センサ」に直結することができる。

学びの快感、を師から教わった生徒は幸せ者だ。

愚痴を言っても始まらないが、自分は「学ぶことって楽しいよー!」と教わった記憶がない。
強いて言えば、親が何かイソイソと調べ物などしている後姿を眺め、「ふぅーむ…何か楽しげやのう…」などと訝っていたくらいか。


正直、長い間「ソンしてたなぁ」という思いがある。

本当に「義務教育」などというネーミングは即刻廃し、「喜びのまなび」とか「楽しい学習」とかいう呼び名にしてもらいたい。

まあスグにはそんな事にもならぬだろうから、せめて周囲には言い続けようと思う。
若い人、特に子供には非常に大切だ。


大人は「そういうことを伝えねばならぬ存在」だということを徹底的に自覚する必要がある。(断)


そうとは知らずに負の強化


先の通り魔事件以降、愉快犯も含め「予告犯」が相次ぐ。
また先の事件ではネットへの三千回を超える書き込みがあったと聞き、驚く。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080619/crm0806190743001-n1.htm

■自己否定の末、自分主義に


「負けっぱなしの人生」「いつも悪いのは俺」「キット寂しい老後」「不細工な私」−。


17人を殺傷した加藤智大(ともひろ)容疑者の3000回に及ぶサイトへの書き込みは、自己否定の言葉で埋め尽くされている。


友人、同僚、家族、女性へ、これほど自分のみすぼらしさを語って犯行に及んだ者が、かつていたろうか。


自分を嫌う強烈なエネルギーが、無関係な他人に向かった。
<サンケイweb社説 心理カウンセラー 星一郎より>

専門家の考察は次回に譲るとして、本記事を見てまず思ったのはグルグル回る「負のサイクル」だ。


その「負のサイクル」が回りまわった結果、本心から「自分が嫌い」になる、と指摘されている。


自分が大好き、とはとても言えないが、そんな自分が「『生きて』いることは認めている」。
そんな気持ちがベースにある、いや「あるのだ」ということを自分自身で確信していないと、生きることそのものにも揺らぎが出てくる。


自分の、弱い部分も、汚い部分も自分の気持ちは自分が一番よく知っている。
「生きる」ということについてくらいは、それを肯定してやらないと、一番いやな奴は自分、という結着は想像に難くない。

どんなことには、人として自信を持つべきか。逆に
どんなことには思い上がってはいけないか。

そんな話は日常的にしていかねば。
それも相当、積極的に。


そんなことが、せめて自分にもすぐにできることなのだと思う。