藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

芸術、というメソッド。


音楽をやっていよかったこと。
そんなことすら思ったこともなく。
それにしても最近、「これは一体何なのか」と沸々と疑問。
こんな形の残らぬものに、自分は何を思うのか、と不思議だった。


年を取らねば分からぬこともある。
若くして上手な子たちは、それこそ若くして「そんな境地」に入っているのだらうか。


機会があれば聞いてみたいものだ。
(補足:多分、若い彼らはそんなことは知らない。が、それでも追求への欲求、が湧き起こるのが伝統のすごさだろう。後からみればそんなもの、だが当事者の若者たちを惹きつける魅力は歴史の重み、と言うしかない)


やはり、電動ピアノでは限界か。
なので苦労して、金を工面しせっせとスタジオ通い。


最近は高級ピアノを導入するところも増え、嬉しい限り。
おそらくは発表会の会場、くらいでしか触れぬスタンウェイなどが時間貸しである。


ずっと国産ピアノしか知らなかったし、第一自分の技量ではそんなの関係ないワイ、と思い込んでいたが。
やはりいいものはいいようだ。(?)と思い出す。


何とも表現しにくいのだが、たまに「音の粒が思わず揃う」というか「あれ、自分が弾いたのじゃないみたい?」といった気分になるときがある。
多分練習すればするほどその「トランス」状態は頻度を上げて登場する。


名人のピアニストたちが追求しているのは、そんな「幽体離脱みたいな境地」を常時導き出す、ということなのではないか。

世阿弥の唱えた「守破離」。

「他人の目」で己を見ることは最難度の技術である。


およそ芸術、とは何でも「そんな状態」を追求するための人が編み出したメソッドなのかもしれぬ。


茂木さん的に言わせてもらうと、それで「脳が喜ぶ」ということなのだう。
まったくこの年にして、だがやはり伝統というものは侮れないな、と少し襟を正した心境だ。


歴史、を学ぶには時間がかかるようである。