人というのは難しい。
特に「自分の意に沿わぬ」ことについては、「これほど歪んで見えるのか」と感嘆する。
そんな中、先日驚いたこと。
ある中学生との会話
日常会話の中で。
私「勉強楽しい?」
中「楽しいわけないですよ」
私「どうして?」
中「よく分かんないし。だから進まないし。」
私「へぇ。でも実はそれって少しづつ確実にススんでる、ということかもしれないよ?」
中「へ?」
私「実は結構進んでるのが見えないだけじゃない?そう思えばだんだん楽しくなってきたりするよ。勉強が。」
中「えーうそぉー」
私「ホントホント。オレがね、最近そう思ってるんだよ。四十過ぎてからだよ。」
中「へぇー」
私「学生のときは、とっても'そんな風'に感じられなかったオレが言うから間違いないよ」
中「ふぅん。じゃそんな風にに見てみます」
若い世代は大人より驚くほど素直、でもある。
この短い会話の中で、うそでも「そんな風に考えてみる」という視点が彼女に芽生えたのなら望外の喜び、とはこのことだ。
伝わればよいが。
「学びの喜び」。
総じて、これについては「教える側」に責任があるのではないか。
年長者みなの責任。
いつでも話せる自分
この中学生よろしく。
常に一歩さがって、特に「情緒」(←これが一番力が強くて厄介だ)を排す。
すると受験に悩む中学生にも「そんな思い」は伝わるのだろう。
そいつは本当は何が言いたいのか。
よもや「そいつ」のほうが正しくはないか。
その目を持ったとたん、『賢者の声』が聞こえる。
実際に「人との会話」でこれを意識してみると、威力がよく分かる。
一度ぜひお試しを。
子供と話す大人も同じ。
このコに言っていることは「案外」正しいのかもしれない。
そう思って話を聞く。
意外な発見もあるものだ。