藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

快感はどこで感じる。


人の三大欲望の一つ、性欲。
相当な哲学者や芸術家、世界中の為政者や国王、もちろん一般市民は言うに及ばず。


生物として男と女、に二分される我われは、この問題を種ある限り引きずってゆくのだろう。
てなことを自分がわざわざ言うまでもない。


今や「種の保存のためか、単なる快楽のためか」などと議論になりながらも「男女の関係」は我々のもっとも関心の高いテーマであり続けている。




現金なものだ。


教わりもセズ


誰にも教えられもせぬのに中学になるや、率先してエロ関連物を追い求め、医学用語辞典を繙き、あまつさえ国語辞典すら対象に。
誰にも指示されもせぬのに勝手に「交換日記」とか「合コン(当時はそんな名ではなかったが)」を始めたりする。


まったくよくしたものだ。
でまあ、いっちょ前にカップルになってみたりするのだが。
で自分は、あまり経験豊富ではないのだが。


それにしても考える。

今の自分の性欲は、「子孫を残すため」というにはあまりに余分だ。

というか、ある程度子供を作ったりしたあとは、性欲など「自然に」もっと減退してもよいのではないかと思う。
「自然に」よりは過剰だ、と思う。

そしてさらに。
性欲の正体、とは何か。

ただ異性とsexしていればそれで満足か。
好みを探し。
「それ」を求めているのか。

どうも、違うのではないか。
「それ」が目的ではないのではないか?


どうもこの辺りが自分が「性」に対して最もナゾを感じている部分なのだ。
一体こいつは何なのだ、と。


大きなテーマ


ピカソだってダリだって。
古今、「性」をテーマに掲げた作家や画家、写真家など数知れず。
自分などが一夕に論じる、というのは土台ムリか。


自分の経験で申し上げると、若い頃、出会いなどなくとも、しかし身体はどんどん思春期になる。
で、悪友同士、結託して「風俗街」などへよく出かけていた。


興味の力(これぞ自発!)はオソロしいもので、インターネットなど欠片もない時代にも、悪ガキたちが一致団結して「その辺りの情報」をリサーチし、あまつさえ富裕な家庭の息子は、自分の「子供としての信用」すら擲(なげう)って資金調達などを行い、皆が一つの目的に向かってばく進していた。


学校のテストの終わり辺りになると、「それ」が目標になって妙にウキウキしていたおかしな状態を思い出す。
まあそんなもんか。


エロは絶対値ではない


さて、ガキの頃から、自発的にそんなことに興味を持ってしまう。
それからがずい分長く。
だんだんとそんなことにも飽きてくる。


さすがに。


性風俗、という意味では最近なんかの方が余程いろいろ工夫が凝らされているようなのだが。
そこで思う。

単に異性、を求めるような衝動はそれほど強いものでもない。
なぜなら「それ」はとても「直線的」なものだから。


だから人間はもっと「しかけ」を複雑にするのではないか。
なんのかんの言っても。

より、手に入りにくく。
より、逆境に近く、
より、近づきにくく。


より、より遠いもの。

そんなものにどんどんと「対象」を移し、それを追い求めていくような。


性とは「そんな対象」なのではないか。


ふと冷静に見れば、それほどのものでもない。
ところが手が届かない、と思うと欲しくなる。


人の心にはそんな「快感の構造」があるのではないか。


そんな目で自分も見てみたいものだ。