藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

今欲しいもののワナ-その二

今の目標が本当に間違っていないか?


その時々。
小学生から社会人30才くらいまで。
いや、40才くらいまで。(正直)


その各年代で追い求めていたものは、「次の世代」になって途端に陳腐化しているゾ、ということに気付いたのは四十路に入ってからである。
三十代初めから「ウーーーム。どうも何かヘンだなぁ」とは思っていたものの、気づけなかった。(嘆)

だが、今になってグルッと後ろを振り返ってみると、まあなんと自分の「価値観の履歴」のアテにならないこと。ならないこと。

恥ずかしいことこの上なし。


まあ若者の欲望など、即物的、せつな的なのは当たり前、と思ってみても見事に「目の前の利得」みたいなものに眩惑されてきた歴史である。(嘆)
そしてもちろん、今なお眩惑中である可能性も強い。(嘆嘆)


今は過去を振り返って、なんとなく達観したような気分でいるが、それは「今から後ろを見て」だけのこと。
この先を見れば、相変わらず「全然分かってねえな」ということが今後も続く可能性がある、という恐怖もある。

女性は意外に見えている。


女性には割合多いのだが、若いうちから「安定して、ごく平凡な家庭を持ち、派手なことはなく無病息災であるのが一番」という価値観を持っている人などには正直驚く。
なんと達観した人生観だろう、とこれまで幾度かそんな人に会い、心底驚いたものだ。


ま、それもともかく。
今「こうあれかし」と漫然と、しかし「はっきりと」自分にとっての望むこと、をイメージしてみる。
そして、もしかしたら「それ」って実は先々あまり「大したことではなく」、むしろ「しょーもないこと」なのかもしれないぞ、と自分に自問してみる。
だって、いままで何度もそれの繰り返しだったから。


それでもう少し普遍的なものとか、精神的なものへの関心を広げるようにしたいものだと思う。
自分たちはついつい、派手なこと、華やかなことに目が行きがちだが、実はそこに花はあっても「実」はないのかもしれない。


世間のはやりの価値観に流されていると、いつまでも漂流する。
惑うことなく、「私はこういうことがしたい」というものを見つけること。
流行りの勝ち組よりも、実はそんな「いぶし銀的価値観」を追い求めたいものである。


さて、これからやりたいことは何だろうか。