週刊ダイヤモンドで取り上げられていた、野村克也氏の語録。
よーく考えてみる。
恵まれること、に自分たちは鈍感である。
それはなぜか無類に「よいこと」だという感覚がある。
それは食欲、性欲、睡眠欲などが満たされること、と直結しているからか。
また自分の欲望と比較して、現在がいつも劣っている、物足りない(まあ欲深い)という思いも常である。
「足るを知る」ということは偉大なことのだ。
なのでその先、をぜひ考えたい。
それが「恵まれ過ぎる」こと。
いま自分が「恵まれ過ぎているな」というようなことを感じる機会は非常に少ない。
「いやー自分、非常に人生に恵まれてまして」とか
「いやぁ、俺って恵まれてるな−」というようなのは、加山雄三ばりに「幸せだなぁ」というくらい普通の人にはなかなかない。
鳩山首相くらい衆目の一致する資産家なら、とっても似合う表現ではあるが。
それにしても、金持ちというのは、人前で「金持ちです」といえるくらいでないと「金持ち」ではないのだ、ということが分かった。
感心しきりである。
足るを知る、からだが
逆説的だが、だから「今でも足りているのではないか」
「今を足りている、と考えることが重要ではないか」ということに思考が及べば、冒頭の「恵まれ過ぎ」ということもあまり憂うことはない。
だが。
当週刊誌でも紹介されているが、「底上げ的」に恵まれていると、自分たちは追いそれと「そのこと」に気づかない。
野村さんの言うのもその辺りのことだと思う。
牛丼が300円で食べられる時代に「餓死の恐怖」を感じろ、といってもそれは遙かに遠い。
一日一人五打席、しか練習できない時代の「一打席の大切さ」を特打専用マシーンをあてがわれている身では気づかない。
せいぜい「多くの時間を練習すること」が努力の目盛りとなるぐらいである。
ウォッシュレット、ウオームレットのついているトイレに育った人は、くみ取り式便所を想像しにくいだろう。
て何の話だったか。
生活の質を上げよう。
なので、いつの間にか贅沢になり、そんな居心地の良さに鈍麻してしまうのが、私たち人間。
なので、いつも「一定の飢餓状態」というものを意識しておく必要がある。
自分で言えば、大好きな炭水化物を食べない、とか。(じゃあ酒を飲むなよ)
買いたい本があっても手当たり次第に買うな、とか。(だから読むことに注力しろよ)
声をかけたい異性がいても我慢する、とか。(根性なし)
とまあ野球のトレーニングほどでは到底ないにせよ、有難み、とか便利さ、飽食、みたいなものにはよくよく注意を払って置く必要を野村監督の言葉から触発された次第。
Q.ちなみに野村監督とイチローの共通点は。
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A.道具を大切にするところ。だそうである。
また感心。