藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

演奏するのは頭であること。


ピアノの練習曲にハノンピアノ教本、てのがある。

全訳ハノンピアノ教本 全音ピアノライブラリー

全訳ハノンピアノ教本 全音ピアノライブラリー

多くのピアニスト予備軍を震撼させ、また多くのピアノ教師を困惑させる練習の書である。


色々な形の「指の練習」がえんえんと続く。
1番から60番まで。

まともに通して練習すれば、二時間を下回ることはない。


十代まであるいは十代のころは、この練習曲が無味乾燥、もうただただ「いやな存在」でしかなかった。
まあ腕立て伏せとか、サーキット走行とかの「基礎トレ」みたいなもので、「ただ体力をつける練習」のようなその存在が疎ましくてしかたなく。
結局、十数年でピアノの道は断念したわけである。

因果応報か。


そんなことすら、とうに忘れ去って社会人。

それが厄年を迎え、身体の変調に気づき、何か文化的な「拠り所」を求めるような格好になって、再び音楽に目が行った。

そこで、四十の手習いよろしく再チャレンジした音楽は、以前のものとは「雲泥の差」だった。
まったく別物といっていい。

ハノンは必然、だったのだ。

優れたアスリートが、基礎体力の維持、向上に余念がないのと同じく。
「一定の演奏」を自らがするためには「一定の筋力、体力、技術が要る」そんなことが、音楽であれ、スポーツであれ、仕事であれ、恋愛であれ?、必要不可欠なのだ、ということに気付いたのはここ一年のことだ。


音楽を始める年齢は若いころから、が常識だが、その幼いビギナーたちに「基礎練の尊さ」とか「その後の楽しさ」のようなものを伝え、啓蒙していくのが師事される教師たちの役目なのではないか。


なに、一般教養の世界と同じ。

学ぶ楽しさ、基礎練の楽しさ、みたいなものが伝わり、醸成されるか。
教育の成果はその一点にあるのではないか、などと思うようになる。


ハノンすら楽しく。
さらにいろんな時代の作曲家の作品に触れることは、さらに楽しいのだ。
そんなことを指導者たちは、もう一度念頭に置くべきではないか。


業界の第一線で活躍するプロたちの共通点は、そんな「楽しみ方」を「師や、あるいは自らの練習の中で見つけ得た人たちのその後」ということのような気がするが、どうだろうか。


ハノンも楽し。
ソナチネも楽し。
ショパンも楽し、ベートーベンは難しだけれども。

要は結構、頭を使う作業なのだ。
その意味で、知的な興味を包含している。


音楽、絵画など芸術の楽しみはこの「頭で感じる快感」が要諦なのだろう、とようやく気付いた四十半ばなんである。
道の追及は、ようやく始まる。