藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

正解が目的ではない。

ネットの使い方。


今さらだが。
学生時代には自分もよく「解答集」から答えを眺め「フンフン」となんとなく類推して分かったような気になっていたのを思い出す。
よく「ネットでチョイチョイと調べ、コピペで論文作成」という話があるが、まあ「ネット以前」と以後では「知識」というものの位置づけが「ひと次元」違ってしまった。


「知っているかいないか」とか
「回答は何か」とか
「特に目的のハッキリした命題」に対しては瞬時の回答を得ることが可能になった。(そうは言ってもテコでも載っていないデータもあるけど)
「アウトプット」をする上で「知識の量」が内部で複雑なつながりを持ち、重要であることには違いはないが、こと「知識だけがある」という存在は相対価値がものすごく下がったと思う。
そりゃ世界史年表を順番に記憶しているだけではネットには敵わない。
ローマ時代の「何が表現したいのか」というときに年表が役に立つわけだ。


というわけで、「こういうことを知っている」というのはそれだけでは明確に意味がなくなった。
ので「その後」に注目していきたいものだ。

アフター・ノウ


普通は「これってどういう意味だろう」という動機で調べものをする。

ネットではそういうものが、かなりのスピードで分かるのは当然なのだ、と自覚する。


だから「知ったこと」で満足してはいけない。

「知った先」をどれだけ意識できるか

ということがこれからの常識なのだろう。
より「知」が高度化しているということと思える。
ネットはそんな風に使えば、さらなる深みに手が届くのだ。