藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

なぜそれが好き?


思えばこれまでの人生を振り返り。


幼少時から常に何かを欲していたな、と。
で自分は何に憧れていたのだろうか、と思う。


一般にスポーツ選手とか。あるいは芸能人とか。
金持ちとかインテリとかモデルとか政治家てか?


こういうのは、結局現在につながり、それが今の自分の価値観になってくるので少し慎重になるが。
子供の頃には人の持ち物がやたらに気になったり、また運動神経の良い人が羨ましかったり。
「彼我の差」自体が関心だった。

よそはよそ。とはなかなか思えなかったのだ。


今でも芸術家や何かユニークなテーマを追いかける学者などに、言い知れぬ魅力を感じる。
そういう意味では、自分の価値観は「自分に無いもの」を追いかけていたようにも思う。
つまり「自分にあるもの」にはあまり興味を惹かれない、ということか。

希少性に惹かれること


希少価値、という言葉の示すとおり。
「ただレアなだけ」で価値を持つものもある。
よく考えてみれば、それがどれほど自分にとって「本当に必要なものか」は二の次に。


何か希少性に幻惑されている状態とも思える。


なかなか手に入らないもの、をやたらに「価値がある」と解釈してしまうのは危険なことだ。自分もそうだったが「コレクション」などというものもそんな嫌いがある。
何かのきっかけでフィギュアなど集め始め、だんだん気に入ったような気になり、「集めることそのもの」が自己目的化する。


今のように何でも露出し、マスコミも流行で瞬間湯沸かし器のようにワッと騒ぎたて、時が過ぎれば、すぐに冷める、という時代は「自分が本当に必要としているものかどうか」という視点が特に重要な気がする。


折にふれ、「正気に返る」ということだ。


物欲


さて、希少性、とは少しズレるが、「物的なもの」も囚われの原因となる。
より多くを望み、より豪華なことが幸せである、という幻想は「そうか?」と気付いた人には割合取るに足りぬことだが、「周囲が見えなくなっている」人には、なかなか気付けぬ難題であるようだ。

こういう場合、より精神性の高い、何かより量的ではなく「質的に高度なもの」に触れたりすると、途端にそれまでの価値観が吹き飛び、一気に開眼したりする。

やたらにお金があるのだろう、まったく似合わぬ金ピカのアクセサリなどで装っている人を見るが、気の毒なことである。
自分にふさわしいかどうか、という視点が欠けている。


そんなことを言って自分はどうか。


今のあこがれは、というと間違いなく、何か複雑なもの、とか解決されない難題、とかそんなものに挑戦する孤高な存在に憧れる。
日々の口を糊さねばならぬのは、誰も同じだが、そんな中自らの道を求道する。


そんな誰も寄せ付けない峻厳さが、何ともいえず憧れに感じるのはなぜだろう。


混ぜっ返ってしまうが、その奥にあるものが「希少性」だからではないか。


結局また「そこ」に憧れているのかもしれない。
「興味を持つ」というのは相対的なものか。


実に興味深い。(謎)