藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

学び、の要諦。


続いて、内田樹の研究室から。
内田さんのエントリーはハマるものにはずっぽりである。
実に問題提起、示唆に富む。


「自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない」


この一文だけで、このエントリーの価値は計り知れない。
我われは自己を捨て、また自分を客観視する力を常装すれば、すごい武器なのだ、ということは人生における乾坤一擲、不変の原理でもあると思う。


義務教育を経て、私立学校などに行き、「教わること」にも慣れきって。
いつしか「おのれ」が動く、ということを忘れてしまう。
それが現代のエリート層持つ根本的な脆さだろうか、とも思う昨今。


自分が動くこと。


「それこそ」が、自分を次のステージでも生かし、
「それこそ」が自分を「次のステージ」で通用するように鍛え、
「それこそ」が次世代をサバイヴしてゆくための最も大事な要諦なのではないか。


これだけのことでも、知っているといない、とでは雲泥の差であると確信する。

他人のせい、環境のせいではない。
たとえ外部に何かがあっても、それに対峙するのは「動く自分」である。
そんな本当の「自立心」が結局自らを助けることになる。というのは理屈の上ではずい分シンプルなロジックだろう。


天は自らをたすくものを助く。
とはよくいったものである。


「自分がみずから動かねば、事態の打開はないのだ」という胆力をもてる「主体びと」は結局、他人に甘えることを「最初の選択肢」とすることなく、遅れず自分でついて行く。

テーマが「学び」であれ、「仕事」であれ、「結婚」であれ、「就職」であれ。

自ら動く、ということは我われ個人、という単位で見た場合の最高の武器であり、方法なのだ。


そんなことに思いが至るのも四十過ぎのこと。
因果なものである。


でもそれが「年を経る」ということの証なのかもしれないな、とも最近は思うのだ。
さて、結論が見えるのはもうすぐ先だろうか。


いつまで経っても気づかされることは多く、面白いやら、呆れるやら。


<内田ブログより>

このキャンパスに設計者のヴォーリスはたくさんの「秘密の小部屋」や「秘密の廊下」を仕掛けた。
自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学舎そのものが構造化されているのである。

自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。

これはすぐれた「学び」の比喩である。
(中略)


それは自分の心身の感度をどこまで敏感にしてもよいということである。
自己防衛の「鎧」を解除してよいということである。


感度を上げれば上げるだけ五感は多くの快楽を享受することができる。


そんな環境に現代人はほとんど身を置く機会がないのである。
「心身の感度を上げる」ということは「学び」という営みの核心にあり、その前提をなす構えである。


それを可能にする場所であるかどうかということが学校にとって死活的に重要であると私は思う。
本学はそれが可能な例外的なスポットである。
その特権をどうか豊かに享受してほしいと思う。