藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

創作、ということ。


「電子図書館の光と影」という内田ブログのテーマ。
要するに著作物がネットに上がった場合の「アクセス優位」と「集金不能」のせめぎ合いの話だが。

内田師匠は、あっさりと「だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。」と一蹴する。
著作権者として、みごとな、象徴的な姿勢の標榜だと思う。


著作物、で身を立てて(食べて)いる人に、「それ」を手放せ、というのは酷な話。
時代とともに「摩擦」を伴うのはしかたない、と思う。


だが、

そんな「端境期」にどんなスタンスを自分は取れるのか。

というのはなかなかに重要なことだと思う。
色んな産業が、時代の経済成長の一翼を担い、そして次の主人公へとつないでいった。


メディアの盛衰などは記憶に新しい。
DVD、の到来か予告された「CD全盛」の時代など、またアナログレコードが磁気データに変わったころなど。
そして、メディアの先端のマスコミすら、自らの「生きてゆくための広告モデル」が脅かされているのが今である。


その分野のプロとして生きる、ということ。


この年ににして、いわゆる「その分野のプロフェショナル」とお会いする機会も多い。
一様に共通するのは、その「厳しさ」である。


「何かの資格があるから」とか「入社試験に合格したから」とか、そういう「形式」の一切通用しない世界。
いや、問題にされない世界、というべきか。

常に「顧客に対して」の評価だけで、自分の価値が決定されるような。
そんな峻厳な厳しさを「プロ」と呼ばれる領域の人たちは身にまとっている、と思う。


「それ」が我われと違う、プロというものなのだろう。

「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。
「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。
文芸家もそれと同じだろう。

より「個性的な」、「オリジナリティの高い」生き方をしようとすれば、それに見合った「産みの努力」は必要なのだ。
音楽や、絵画や、執筆で「生業」を構成しようという「プロ」の心構えは、内田さんのいうように「せこいアクセス制限で守ってもらうようなものなら、土台価値なし」という豪快な問いかけによって図らずも試されているように思う。


このネット時代に、「創作」で生きてゆくなら、それにふさわしい「コピー以外の価値」を備えるよう努力すべし。
既成の法律に頼った、女々しい保護の殻の中に閉じこもるな。


そんなメッセージを受け取ったのである。

自分の一番コワいものを、敢えて「晒して」対峙する。

それが最も自分を研鑽するのだろう。