藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

錬金術の終わりに

他の物質から、「金」を合成することは、科学的に不可能だ、ということはずい分前に判明していた。が。

合成した物理的な「金」ではなく、リアル世界を流通するカネから、なにかレバレッジを引き出すことは可能ではないか。
というのがここ数十年の金融工学


そいて、
サブプライムという錬金術が終わり、やはり金をつくることはムリなのだ、と判明してしばらく経つ。


膨張から収縮へ、という運動の中でそりゃ必要以上に縮んでしまうのはイメージしやすい。
さて、問題は「どこまで縮むか」ということと、「そもそも同じベクトル」で今後も伸びたり、縮んだりするのか、という話。


もう十年も前に、会社の価値ってなんだろうか、とぼんやり考えた折、会社って何すりゃいいの?と素朴に疑問が沸いたものだ。

「会社は従業員の生活のため」とか
「雇用の確保」とか
「株主の利益のため」とか
もちろん
「顧客のため」とか
「取引先(パートナー)のため」とか
最近はstakeholderなんて横文字で、全部まとめて面倒見る、みたいなことも言われている。


でもって、さらに最近はグリーンニューディール政策、とかエコファンド、などというものが出てきた。
「価値観の変局点」の象徴はこういうものかもしれないな、とようやく最近気づいた次第。


エコとか、高齢化、とか福祉とか。
そんなものに「明確に向いている」そんな企業になら、投資してみたい、とか。
そんなファンドになら、金を出す、とか。


自分の立場について


会社や経営者、リーダーは今一度自分の「存在基盤」について明らかにすべきなのだろう。
それが自社を、ただ経済的に大きくすることであれ、
あるいは廉価な製品をあまねくいきわたらせることであれ、

ともかく「自陣の方向はここにある」と話を始めねば、現場は 混乱するばかり。
職場を選ぶ人も混乱するし、またリーダがその境地に迷いがあるなら「それはそれ」で納得感もある。


唯一絶対的な価値観などない、と思う。
ただその底辺に流れる「思い、志」はそれこそが重要かとも思う。


グローバル化、ネットワーク化が進み、様々な情報見が共有化されるにつれ、「お座なりリーダー」はますますお座なりではないれらない。
そんなリーダをスタッフたちは許さぬだろう。


一昔前は、情報を独占した、限られたリーダーたちのいわば特権が、今は薄らいでいる。
リーダとスタッフ、それぞれの重要な役割が、これまでになく互いに問われているのだ、という感が強い。



しかしながら、「真のリーダーシップ」というものはそんなあたりから出現するのだろう、とも強く思う。
百年に一度、の今が一番そんな「価値観の変化」に乗り移りやすいのかもしれない。


特に、今の十代、二十代の人に「この先二十年」を見渡す視野を持ってもらえれば、などと思うのである。