藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

心の箱庭。


箱庭療法、というものが現代の病める人の心の治療法として、かなりの部分を占めている、ということを最近知る。
それからずっと、この「心」が「箱庭に求めるもの」は何だろうといつも気にしている。



箱庭に「枠」が使用されている点に注目。

そして、患者が箱庭の「枠」があるために、箱庭による自己表現が可能であり、治療効果があることに気づき、自身の風景構成法の「枠付け法」に応用した、といこと。

「枠」があるために可能な自己表現。


箱庭、についての専門的な考察はこれからの課題にするとして。

「箱庭」という目の前の「限られた箱」の中にこそ、自らの実体を表現し、それを目視し、それで自分の心が安定する。


それは、自らの手足が急きょ吹き飛ばされ、身体のパーツを失った人が「脳でそれを知覚できずに感じる幻痛」に似ている。



人はそれほど「視覚」から得た情報に固着するのだ、とも改め思う。


箱庭療法、は広がり、サービス化を進める今の先進国において、「何か定位感」をもたらすための貴重な表現手段になっているようだ。

見えない不安、にどう対処するか


そんな風に思えば。

現代の先進国の「サービス化」という大潮流に、思いはぶち当たる。



みんな、見えなくなっている。

昔、田植えをしたり、玉ねぎを作ったり、綿を育てたり。

なにか「目に見えるもの」でしか仕事を計らなかった前世代に比べ。



あまりに「見えないもの」に偏り、ネクタイを締め、スーツを羽織り、そして「ピル内のオフィス」で一日を過ごす人種が出始めてから、およそ二百年ほどが経つ。

その二世紀の間に、いろんなものが「見えなく」なった。


いや、それそのものが「文明」とか「産業の発展」だったといってもいい。


「地道で泥臭い作業」から離れることがエリートの証であり、またそれで世界中の流通が発展したことも事実なのだろう。



そして、およそ二世紀後、また時代は逆ブレし出している。

「見えない時代」から見える時代へ。定位感、を今の多くの人が模索している。

「箱庭」はそんな「見えるもの」の象徴なのだ。


「見える」を意識できれば、ずい分と楽になる。


さて。

そういうことなれば、それほど「箱庭」にこだわる必要もない。

その代わり、自分の日常をどれだけ「見える化できるか」というのは重要なことになる。


それは例えば「日記」でもいい。

そうじゃなく、趣味の何かにかかわる「記録とか作品たち」でもいい。

なにか、お稽古ごとのような「積み重ね」もよいだろう。

ともかく、自分の「生きている軌跡」を自分の目で確認できるようなマーキング。

それが結局「自分の精神の安定」の素となる。

ことほど左様に、「それ」が見えぬと人は不安になるようだ。

そんな人間心理が分かってくれば、自分の人生、そんなにあわてることはない。



穏やかに、「実感を持つこと」に気をつけて過ごしていきたいものだ。
自分たちの精神、は意外に堅実なのである。