藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の心が求めていたもの。


最近、河合隼雄さんの本をいくつか読む機会があった。

こころの処方箋 (新潮文庫)

こころの処方箋 (新潮文庫)


特に村上春樹との対話で(なぜ互いが「対話」しようと思ったのか、互いがどれほど互いに必要な人物同士だったのか、は自分などには知る由もないが、それにしても村上春樹という天才にして、河合氏に会う必要があった、というのはとても深遠な何かがあっのだろうと推察する。河合さんの著書はどれも平易で分かりよく、優しい文体が特徴だが)お互いの興味の焦点が一致し、どんどんと核心へと話が進んでゆく様子は、非凡な二人のこれまでの足跡を物語るようでとても興味深い。


それはともかく。

村上さんとの対談集の中で、日米の「心の病」を持った人に対する治療法として「箱庭療法」というものが紹介されている。

これは欧米から日本に伝わり、それが日本でより深められた貴重なメソッドのようであるが、ピンときた。


日本人は「箱庭療法」がとても上手だという。
欧米のように「それぞれの主体」に対して「これはこういう意味」「これは誰誰」という「意味付け」をしないというのである。


日本人は箱庭を、自分の心の赴くままにに、感性でデザインするらしい。
それは「詫び寂び」とか「もののあはれれ」とか言っている日本人のイメージそのものに近いのではないか。

、と直感的に思った。

つまり日本人にとって「箱庭」は自分の心の中の心象風景そのもの。

そこに「理屈」を添えることは必要ないのだ。

理屈が要らない、その「奥ゆかしさ」は日本人の特性に直結しているのではないか。


そしてそんな「箱庭」を造る行為こそ、今の現代人が失った「最も心落ち着く」所作なのではないか。
精神療法としての箱庭、を聞くにつけ、そんな思いを禁じ得ない。


いろんな箱庭。


そんな「箱庭療法」だが、考えてみれば、我われ個人の箱庭、ってないだろうか。
自分に一番ピンときたのは何を隠そうブログである。

誰のために書くのか、いやいや、決して人のためではないゾ、と思ってきたブログは「自分のための精神の『箱庭そのもの』ではないか」。
そして、同じ文脈で「料理」というのも、我われ人間の箱庭ではないか、と感じている。


何か、自分の思いや、日常を「形」にして、確かめたりしたい。
自らの「目に見える」状態にして、「自らの脳で認識し」、ある種の「実感を得たい」というごく自然な欲求の表出した形ではないか。

そして、現代はそれほど「自分のしていること」が「ソフト化」してしまい、だから「リアルに見えるような実体」を求めているのだ、と思えてならない。


お百姓がコメを採っている時代にはあり得なかった「虚無感」を今の文明ははらんでいるのだ、ということはこんなことからも見て取れる。
ブログしかり。


我われは「自分の箱庭」を求めているのではないか。