藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生のキャパについて−そのニ


これからの人生で、
本を読むなら週刊誌1000冊に一般書500冊。
音楽聴くなら3500時間。
演奏するなら100曲あまり。
ゴハンも3500回と。


色々数えたらいくらでもありそうだが、そんなもの。

何か「後悔が先に立ち」そうな数字だが、それが仮にもう十五年あったとしてどうか。

読む本が千冊に増え、
音楽は7000時間聴き、
歌える曲が100から200曲に増える。


それだけのこと。
さほど劇的に何かが変わる、ということもない。

つまり若いころからの人生は時間で考えれば「それだけのもの」なんである。


生まれてから「何千冊」かの本を読んだり、
何千時間かの音楽を聴いたり、
幾らかの曲に深めに親しんだり。


自分のこれまでは、そういう数字で表現すると「そんなもん」になってしまった。(呆)
つまりどんな自分の人生も、「そんなふう」に記述すればそんなものになってしまうのだ。


さて、一生は長いようで、そうでもない。
朝の出勤前の時間は「爪に火をともすように貴重」だし、でも仕事中の無駄な会議の最中は時間が止まったようでもある。


自分の位置、を掴むため。


そんなジジ臭い話しは、ともかく。
毎日の日々を「ふんわりと定位感なく」過ごしていては、まったく自分の位置を見失う。
だから自身を喪失したり、周囲の人との距離感を誤って凶行に走ったりする。

だから定位感を持つために、なにか「積み上がる」ことをしようとする。
お稽古ごととか、武道とか、基礎練とか。


そして、後から気づく。
そういう「積み上げ」の稽古ごとは、ともかく毎日毎日の「時間」を要する。
まともなテーマであれば、一日に1〜2時間は最低でも必要だ。


ということは、月に30-60時間。
年に360-720時間。
十年で3600時間から7200時間。


7200時間といえば、一日に8時間の稼働で900日。
およそ3年弱、そのことだけに専心する、そんな努力である。


何か、お稽古ごと、に従事すればいいのではない。
それには、「それ相応の」時間の犠牲がつきものなのである。


しかし、それでも何か「積み上げる系」の努力を人はするべきなのではないか。


それがこの「人生のキャパ」への問いかけである。
ただ何かのテーマに時間を費やせばいい、ということでは毛頭ない。


だが、費やした時間はうそをつかず、何がしかの成果をもたらす。
そんなことを意識して、自分が将来を見据えて「何に時間を費やすのか」。



若い世代には、そんな目をもってもらって、「使うに足る」時間の使い方、を意識してもらいたい。
無為に仲間とたむろして、ただただダベりながら過ごす夜長は、それはそれで楽しい。


だがその反対に、「シビアに使う時間感覚」は年を取るにつれ重要になってくる。
そんな中でも人生の時間の経過は一定である。


人生のキャパはそれほどない。
あらかじめ予定して、納得の行くように使いたいものである。


あー。
何だかサブい話になってしまった。