藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

「考える人」夏号より。

考える人 2009年 08月号 [雑誌]

考える人 2009年 08月号 [雑誌]

内田樹×鶴澤寛也(女流義太夫)の対談から。
対談者同士、どちらも厳しい「お稽古事」を日々こなすうちに培った「プロ意識」の話が出ている。

こういう話、はじっくり噛みしめて「味わいつくす」といい。というか何よりの酒の肴。
一番の好物か。


自分たちが生きていく上での「エッセンス」が凝縮されている、と思う。

こういう話を発見するのが自分にとって何よりの読書の醍醐味なのだ、と今気づく。(焦)
つまりこういう「お得感」を味わったときに快感を覚えるのが自分という人間らしい。

ちなみにこの本で心惹かれたのは、この内田さんの対談の本の二ページでしかない。
あとはまるで興味なしだった。


物語を楽しむ、とかそういう主旨にどうしてならないのかと思っていたが、今分かった。
これも今回の大きな発見。


アマとプロの違い。

(前略)
内田「芸だけではない、生き方ですよね、プロとアマチュアの違いって」


鶴澤「そうなんです。音感がいい人はアマチュアにも大勢います。(中略)でもそれがプロということではなくて、どんなときでも続けられるというか、やめるという選択肢のない人がプロなんだと思います。あともうひとつ、私が考えるプロの条件は、舞台では緊張しても、あがらないこと。
(中略)私たちは冷や汗でびっしょりになるほど緊張しても、頭が真っ白になることはまずありません。弾きながら「あれ、寛也さん間違えた。これどこまで行って、どう修正するのかな」なんて、どこかで他人事みたいに考えているんです。(後略)


内田「そうだと思います。舞台で上がってしまう人というのは、自分がいて、その前に観客がいて、観客に自分のパフォーマンスを査定される、と考えている。
彼らにとっては、高い評価、高い点を取れるのが「いいこと」なんです。受験と同じ方式で芸のことをとらえている。でもそれだとアマチュアなんですよね。


プロは舞台の上で観客と自分とが対立しているとは思わないでしょう。(中略)どこかの段階から、観客のリアクション込みで自分のパフォーマンスだというふうに腹をくくるようになりますからね。
僕も昔は講演でよく失敗していました。寝てる人がいたりすると、もうそれだけであああっと気が遠くなっちゃった。でも今は、寝てる人がいることもひとつの条件だと思って、こいつをどうやって起こそうかと(笑)考えながら、内容を変えていけます。(中略)


でも、「場そのものを主宰する」のが芸だという考え方にたどり着くまでにはかなり時間がかかりましたけど。
素人というのは誰も見ていない無音の環境の方が人前よりもパフォーマンスの質が高い人ということでしょう。
プロはノイズをノイズだと思わず、それもこの場を構成するひとつの要素として、受け容れることができる人のことでしょう。
(文字色:藤野)

プロの定義


多くの修行と、本番の場数を踏んだ者だけが知りうる「プロの境地」。
それをできるだけ後世に伝えること。


それこそ江戸時代の家伝書、からその要諦は変わっていないようにも思うが、いつの時代も「玄人」と言われる人物の存在は抜きんでている。
マチュアとは自分の立っている位置が違う。
目線も違う。


土台、「他人の目からの評価」には右往左往しない。
「そんな境地」を自然に得られるものこそが「プロ」なのだ。
内田さんの言う「場の主宰」とは正にそんなことなのだろう。
プロは場所を問わず。
弘法、筆を選ばず。


これから自分たちが何の道を追求するにせよ、この「プロの心構え」は役に立つに違いない。

こんな文章に出会うと「ありがたい」という喜びと、やはり文章を追いかけていて良かった、という醍醐味を同時に感じる。
先人の言葉とは(ともすれば、ピッタリ来た日には)有難いものだ。