藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

起業家と経営者の違い。


つい先日、有名な経営コンサルタント氏にお会いし、その明晰ぶりに驚く。
ほんの少し、会社の業績や、事業の中身の話をするだけで、まあたちどころに物ごとの原理を把握する力のすごいこと。


・社歴は?
・役員構成は?
・従業員数と平均年齢は?
・売上と経常は?
・固定資産とキャッシュは?
・顧客はどこ?
・どんな用途のシステム開発ですか?
・御社の強みは?
・他社と比較しても強いといえますか?
・今後の計画は?
・上場予定は?


その彼は流通業、販売業のコンサルが本業だ、とのことがだこいつはシステム業界の専門家かいな、というくらい、的確に質問をしてビシビシと「疑問の隙間」を埋めて行く。
そして一言「従業員の人口ピラミッドと、時代に応じた新規事業を生み出してゆく仕組みが必要ですね。でないとアナタがいない創業三十年以後に問題があるかもしれません。」
とのこと。


創業三十年。
あと十年やんか。


ははあ、こういうやつを目から鼻へ抜ける、というのだな、と感心しきり。
ジャック・ウェルチってこんな感じかな、などと夢想したりした。(会ったことないですけど)

そんな彼を頼りに、しょっ中「社長をして欲しい」というオッファーが来るそうである。

まあこういうヤツに任せておけば、コストの削減のしどころとか、営業部の弱いところ、とか製品の競争力、とか人材育成、とかまあ全方位的に気がついて、さぞかし抜けのない経営をするのだろうな、と容易に想像できる。

「それで、何でその申し出を受けないんですか?」
「そりゃ私か起業家じゃないからですよ」
「起業家?」
「そう。藤野さんがいくら不完全でも(ふははは)、起業家は起業家です。」
「ははあ」
「いくら短気でも、いくら無鉄砲でも、やりたいことはあるでしょう?それが起業家というものです。」
「はああ」
「私は経営のテクニックは自負していますが、そもそものパッションを欠いている。いずれそう言う思いが湧き起これば起業するでしょうが、どうもそんな気配はありません」
「ほぉー、そういうものですか・・・」
「自分が見てきた何千人かの経営者は、そのパッションの有無、で完全に二分できますね。」


と一刀両断。
講義モードであった。

狂気の配分。


それから、少し考える。
数年前、と言っても金融ビッグバン、の2000年ころか。
あの頃から、ずい分欧米流の資本市場のキャピタル・マインドのようなものが日本にも流れ込んできた。
それに呼応して、会社法とか証券取引法なんかもずい分変わった。


中小、零細企業までもが株主、とか株価、とか時価総額とか、テクニカルな視点を持つようになった。
なにか新しいことを始めるにも、まず事業の計画書を出さねば、資金も調達できない。
もちろん、計画は大事である。

だが、計画書をいくら書いても、その核心にある「熱いもの」なくしては、魂のない仏に過ぎない。

大手企業の社内ベンチャーなどで「市場規模と、競合と、ユーザーの動向を調査した上でこのビジネスモデルは成り立つと考えます。」
というプレゼンを聞いて「ふーん」としか感じないのは、彼らが「我が身を賭してでも、この事業をやりたい」という思いが、からきし伝わってこないからである。


まあ「そんなサービス」があって、
まあ「それに興味を持つ人」もある程度いて、
その何分の一の人が「それ」を購入するだろう、というのは分かる。

ただ、誰が「それ」をやりたいのか?

たとい、自分が最後の一人のスタッフになろうとも、これをやり切ってやるのだ、という「ある種の狂気」が「単なる商売の理屈」をリアルな「事業」へと産み落とすのだろう。

何事も「情熱」「志」ありきである。

一方コンサルタント氏は言う。
「ただ、情熱のある経営者ほど盲目的です。人の言うことを聞かない、財務を知らない、独善的。ゆえに情熱だけで「経営」を知らない経営者も、また長く繁栄することも難しいのです。(うひゃ)」

狂気と正気。


この世のことは、何でもそんな「対極のモノのバランス」で成り立っているのかもしれないな、と思った。