藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

参謀論。


たまたまお話する機会がある企業の人たち。
「自分は参謀タイプでして」と口にする人は意外に多い。
要は「トップ」のタイプではないが、参謀に適している、とおっしゃる。


自分はこの論に与しない。
どこかその発言には外連があると思うのだ。
優秀で、小利口な人物ほども、この「参謀発言」に捕らわれているように思う。
ちょっとそんなここ二十年感じたことの話。

参謀さん。


参謀とは。
取り巻く周囲のありとあらゆる情報や人材を使って、今後の自軍が取り得る作戦を考える人。
だが、それは最後の詰め腹を切る「責任者」ではないことが多い。
責任者の横にいる「知恵袋」が参謀の本懐なのだろう。


戦国時代も今も。
意志決定をするリーダーは、常にその結果の評価に晒されている。
何があっても自らの進退をもって処さねばならない。
参謀に貴重な意見を聞くのだが、最後は己の覚悟次第である。


参謀と、トッ「プの決定的な差はここにある。
たとえ、参謀がトップと命運をともにする覚悟だとしても。


リーダーの条件


自分がこれまでの経験から感じるのは、「参謀」と「リーダ」は能力的な資質の差ではない、ということに驚く。
腹のくくりよう、というか。
リーダーは端からからリーダー。
要するに自分の命などないものとして、その座についている。
だから往生際も悪くないし、また自らを覚悟しての意志決定も早い。


一方参謀は。
戦略の練り込みと、敵方とのやりとりを高度にシミュレートし、精一杯先を読む。
そこにはあまりリーダーとしての感情など入り込まないし、むしろ邪魔である。
参謀に必要なのは、覚悟よりも怜悧な客観性なのである。


だからリーダーと参謀は一セットになり得るのだ。


そして思う。
参謀たり得たる人が、今ひとつ意識を変えて「リーダーたる」ことを考えてはどうかと。
参謀がリーダーになる過程で、おそらく一番かけているのは「こうありたい」という思想的な要素だろうと思う。
なぜなら参謀というのは「そんなもの」を持たない方が客観性に優れているのだから。


優秀な参謀が、その先に思考、思想、ポリシーを持つこと。
日本からの数多くのリーダーの出現、というのはそのような「促し」が必要なのではないかと思う。
参謀とかアナリストは、どんどんその先を目指してもらいたいものである。