藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

より複雑に、より困難に。


製造業は、そのシステムの優秀さ、がその企業の浮沈を決めた。

だが、サービス業には「大量生産」という概念は当てはまりにくい。

同じ素材を集め、

同じ比率で混合し、攪拌して

同じ型にはめて成型し、

同じ検査をして「大量」に製品を送り出す式のことはサービス業にはしにくい。



「てこ」が効かないのである。

どんなにすばらしい接客マニュアルとかコンサルマニュアルがあっても、「一人一人の心」にそのマインドが行き渡っていないと「均質で優秀な製品」は生まれない。

まあ「それ」そのものがサービス業の特色なわけだが、ともかく「人間一人一人」の所作が、モロに品質とか顧客評価そのものに響いてしまう。

人間的だけれど、効率はあまり良くないのがサービス業なんである。



これからはそんなサービス業の中でも、「工夫の余地」の少ないものはどんどん淘汰されることになる。

少なくとも、「昨年の自分」より「今の自分」の方が、より高度な仕事をしているか。



自分の仕事は「より高度に」「より複雑に」「より困難に」なっていかないと、周囲のスピードの押し流される運命にある。

一年前の自分と今の自分は「なんら変わらない日常」を送っているとしたら、

そしてそれがサービス業にいるのだとしたら、すでに退行が始まっていると思う。

したがって(ちょっと自己目的っぽいことになるが)自分たちは常に「より難度の高い仕事」を志向してゆかねばならない、という原則が導かれる。



周囲には、いろんな複雑な問題が転がっているだろう。

それは、別に自分の仕事(ミッション)ではないかもしれない。

上司とか、先輩とか、あるいは偶然後輩が抱えている問題かもしれない。



だが、より困難に見える問題の出現が明らかになったとき、それに立ち向かわずして「その先」はない。

ちょっと「悲壮の感」が漂うけれど、そんな風に思う。

そして年齢も四十などを超えてくれば、新人さんなどと比べ「はるかに高度」なことをしていなければ、居場所はない。


そして、年を重ねるほど「さらに先」を意識しないと、体はどんどん老い、硬直化するばかりである。(年を取る、というのはそういう意味で重たい)

いろんな「ややこしいこと」は相変わらず周囲にはあるし、一つこなせばまた一つ、とつぎつぎ泡(あぶく)のように沸いて出てくる。(嘆)
やれやれ嫌気がさすワイ、と思うこともしばしばだった。が、「こういうチャレンジができるから、今の自分があるのだ」とようやく思えるようになった。

むしろ「そんなテーマ」がなくなれば、自分など必要ないじゃない、というごくこく当り前のことに、ようやく体で気付く年頃になったらしい。
そんな「鬱とおしいこと」のために自分がいるのだ、と思わば、そうかなるほど!と思えなくもない。

やれやれ。

でも、ほっ。
ちゃんと自分に相応しい仕事、というのはあるものなのである。


「天の配剤」とはこのことだろうか。
なーんて、それも自分の「とらえ方次第」。


プラス思考、しかも「奢らぬプラス思考」というのはどんな境遇になっても持っていたいではないか。