藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を決めるのは他人。


子供のころから、何か天分に恵まれ、ザックザックと自分で実績を出して、自信を積み上げていった、というようなことはまるでなく。
この年になるまでに、何かに「確かな自信」を抱くこともない。
その代わりに、自信のないことは、過去に遡っても幾らでも思い出す。


学生時代の勉強でもテストでも受験でも。
何かイベントとか、大会とかコンテストとか。
親子とか友人とか異性とかの人間関係とか。
進路とかバイトとか就職とか趣味とか。


からきし、「自信あり」というようなものなどなかった、と思う。
それでも幾つか「何か自分を決定づけるような自信」のようなものを感じたことがある。
それは何だったか。

他人の言葉。

それは、小学生の教師の「お前は表現力に優れている」という言葉だったり。
友人の「お前は先輩と友達になる才能があるな」という感想だったり。
親の何気ない「お前は心が優しい」という非常に主観的なつぶやきだったり。
同僚の「お前ほど意思の堅い奴は見たことがない」という驚きの表現だったり。

それほど多くはないのだが、「えっ?そんな風に見えるの?」と純粋に驚いたことが、過去何度かある。

それはともかく。


そして。
結構「その言葉」が耳に残り、潜在意識の中に存在している。
そしてそして。

なんと「そんな風」に自分が振舞って行くようになる。
自分ではそんな気がする。


そんなに「意思など堅くない」と自分では思っていたのに。
自分では結構ふにゃふにゃ野郎、だと知っていたのに。
「そんな風」に言われたからには、いっちょう「初志貫徹なところ」を見せにゃなるまい、などと単純に思いこんで、無理無理でも頑張ったりする。
すると、なんとなく「そんなスタイル」が自分の流儀であるかのような気がしてくるのである。
また次に同様のシチュエーションが訪れると、さらにその行動は繰り返され、「自分流」になってくる。

本能的で他人の言葉にに反応する


何となく、自分の性格の特色は「実は他人さまの指摘」が引き起こした動機で、たまたまそれを「自分で膨らませ、定着化させていったもの」という気がしてならない。
つまり、他人が自分に対して放った言葉の影響は、自分の想像をはるかに超えて「デカい」のではないかと思う。
「誉めてやらねば人は動かじ」というけれど、正にそれ。

それほどに、我われは「他人の期待に応えたい」という根本的な動機を備えているのではないだろうか。

いくら思い返しても、独力で何かを積み上げ、それを自分で自分の自信に変えていった、という記憶がまるでない。
「逆上がりができるなんてすごいね」と先生に言われ、あくる日までに必死に練習して、当日の本番に間に合わせた、あの時以来だろう。(恐らく)


ということは、自分が周囲の人に放つ言葉も、ひょっとしてそんな影響を及ぼさないとも限らない。
特にこれから意識しておきたいテーマである。


またこの話題の続きが書けるといいなぁ。