藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

老いの正体。


ジャネの法則。
年齢とともに、「時」のスピードがぐんぐん速くなる。
本当に最近実感する。
ので書いておきたいと思った。
このまま六十歳になった時にレビューしてみたいと思う。

十代から三十代まで


十代前半までは「時間」そのものに意識が及ばなかった。
時間は水や空気のように「ただそこに幾らでも」あって、まったく何も犠牲を払わなくてもよい存在だった。
そう。
「無限にある」と思い込んでいたのだと思う。
いや、無限にあるのかどうか、ということにすら考えは及んでいなかった。


十代後半になって受験とか、進路とか、はたまた恋愛とか、ちっちゃいけれどそんな人生の起伏に触れると、時間に対する感覚も少し揺れたような気がする。
それでもまだまだ「過ぎゆく時間を惜しむ」というような感覚は微塵もなく、むしろ「無為に時を過ごしている自覚」が芽生え、よほど日々を燃焼していない自分に何か無力感を覚えていたような記憶がある。
社会に出て働くでもなし、勉学に心血も注ぐ気にならず、ただ親の庇護のもとで「さほどの意識なく」日々を消化していた、というのが当時の正しい心境だったと思う。


二十代になって、ようやく色んな日常が「燃焼」し出した。
仕事とか将来とか、恋愛とか家族とか。
取りあえず社会人として世の中に参加し、月給をもらい、いっぱしにお酒も飲み、一しきり世間や政治についてもくだを巻き、そんな平凡なことで自分のことを「世間並みの一員」と自身で確認して、どこか安心していたのだろう。
ようやく「大人の仲間入り」を果たした新入生の心境だったのだろう。
それから仕事が趣味とイコールになり、それから十数年が過ぎた。
その間「あれ?これでいいのか?」とか「おや?俺はどこへ向かったいるのか?」といった立ち止まりを幾度か経験しながらも時間を過ごしてきた。


しかしながら、この二〜三十代も「時間の燃焼速度」についてそれほど焦りはなかったように思う。
やはりまだ体力が下降線に向かっていなかったからだろうか。
夢中に仕事や恋愛をしていたころとはまた違う「燃焼感覚」をここ最近感じるのである。
やはり厄年を過ぎたあたりが起点かと思う。(厄年の定義は42歳の前後二〜三年、と割合広いのだけれどね)

今の「燃焼」感覚

端的に表現すれば「時間の使い方の歯切れよさ」がなくなるというようなのが率直な感覚である。

「歯切れよさ」とは、まあ生活のメリハリのようなものとでもいうか、例えば「今日一日で、できたこと」と「一日かけたという充実感」に感覚のズレがある、というようなものである。
「今日は会議が二つと、資料の訂正を二つと・・・ええと、あとは何してたっけ? 机の片付けと、あ、漢方薬をもらいに薬局にいってて・・・スタバでラテ頼んで・・・それでもう夕方だった?」というようにどうもスローモーな感じなのである。
十年前には「一日に六件アポイントがあると、もう移動中に仕事しながらでも"一秒も"空き時間がありませんわえ!」などと嘯(うそぶ)いて、その実「なかなかガッツリ仕事ができたわい」と思い、夜10時から飲みに行って毎日終電、などと過ごしていたころの感覚とは正反対と言ってよい。


自分の動きがニブくなってきている、ということなのかもしれない。

一日の過ぎるのは異常に早いし、読みたい本は溜まる一方、かといって新しいことを考える時間はどんどん減ってしまっている。

ただでさえそう思って、仕事上の付き合いごとなどは極力遠慮させてもらっているのにこんな感じなのである。
意味もなく同僚と毎晩安居酒屋でひたすら飲んでいたころとは実に対照的な感覚なのである。

「年齢を重ねる、つまり"老い"というのは、実は"こういう感覚"なのではないか」というのが今日のオチ。

老いの正体


自分が自分で、自分の若いころよりも「いかに老いているか」ということを肉体的な特徴以外で説明する、というのは意外に大変ではないか。
老いるというのは、腰が曲がることである、というのは、それでは説明が片手落ちであろう。
精神や肉体が老いる、というのは、実は「時間の燃費の悪化」(一日の、あっという間の消費)のことではないかと思うのだ。


年を取ったから残り時間がない、ということではなく「年を取ったから時間を過ごすスピードがどんどんスローなので」相対的に持ち時間はどんどん短くなっていくのだろう。

知恵者の逆襲


でも、だからこそ身に付く分別もある。
だから、もうあまり無駄な余興に心惹かれることはなく、また物理的に短くなってゆく「レストタイムをいかに生くべきか」というようなことを正面から考えることも出来るのだと思う。
年は取ったなりに、また知恵も働くものである。


自分の時間は、自分で使おう。