藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

今の視点から見えること、まだ見えないこと。

人生の残り時間が少なくなってくると、「ある種の選球眼」が備わってくるという。
保守的、といういい方もできるだろうが、「年なりの見る目」という本能的な感覚の方が近いように思う。
また、うら若い時分には、そうした視点は全く備わっていないことも、「年齢とのトレードオフで備わる意識」ということなのだろう。

早くからそういう「選択の叡智」に優れた人もいるのだろうが、大過なく過ごしてきた凡人が気づくのは、四十を過ぎたあたりではないだろうか。
男性の厄年辺りである。
(英語で厄年はclimacteric.どうも更年期、というような意味が一意らしい。ちょっと違うような気もする)

三十代のころは、何だかんだ言って、「日々の生活と残り時間」という感覚は皮膚からは伝わってこないものだが、その辺の老化感というか、生活感のようなものは年長者になるほどスルドくなるものなのだ。


そうすると、あまり享楽的なレジャーとか、ギャンブルとか、また物欲的なものに興味が向かなくなってくる。
例外もあろうが「脂が抜けてくる」のである。
(ところが異性に対しての感覚だけはそうした「ヌケ」とは逆行するようなのだが、それはともかく。)

本当にやりたいこと

自分の友人に、大の車好きがいる。
何台も所有し、珍しい車があると聞けば見に行くし、また休日には必ずドライヴを楽しむ。
難しいクラシックカーのメンテナンスも自分でこなし、また最新型の高級車にも興味は尽きない。
彼は人生を共に行くの友人の一人として、車を選んだのだ。
夢は、一年を通して、毎日、気分のあった違う車に乗って出かけることだという。
これまでのこぼれ話や、これからのことを話す彼は、とても楽しそうである。
それでいいのだと思った。

人生の一大目標、のようなものは(ある人は羨ましい気もするが)、なかなか「決定的」には出現しないものである。

一日十数時間を費やし、一心不乱にもう「それ」としか向き合わない。
そんな「唯一無二」の存在ではなく、生きてゆく上での"いくつかの友人たち"を選びながら、自分時間を過ごしてゆく。
人生の後半はそんな過ごし方ができるとよいのではないだろうか。

例えば、時間をかけて自分の好きな靴をそろえる、とか。
好きな作家の全集や万葉集などを一から紐解いてみる、とか。
今目の前に起きることに反応している(例えばテレビ)と、段々と疲労し、無力感が増してくるのも老化の特徴である。
"積み上がっていないもの"に一番嫌気がさすのは、自分自身。

自分が本当に好きになれることから、一つ一つゆっくりと見つけたいものである。