藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

想像する力。

もう一つ書きたくなりました。
お金のない学生時代に「もしあり余るほどのお金があったら…」というのは妄想としては成立したが、リアリティはなかった。
そんな「乞食王子」みたいなことは起こるはずもなく、順調に社会人になって初任給をいただき。
少しずつ、年とともに稼ぎを増やしてゆくのがせいぜいでした。
そんな現実の中で「あり余るお金のこと」はやはりリアルには想像できなかった。

けれど、リアルになってきたことがある。
「もう時間があり余ってはいない」ということだ。
これは40代前半、まではあまりない感覚ではないだろうか。
自分はそうだった。

「もう厄年なんで」とは言いつつも。
そこに「死の影」はなかったと思う。

今、うっすらと見えます。
そういうのが。
まだ十年後、とかではないけれど。
でも三十年後にはかなりくっきりと。
まだうっすらだから、そんなにジタバタしていないけれど。
多分これから毎年、こんなことを考え続けるのが老い、ということなのだろう。

若者が道端にたむろして過ごしていると「なんだあいつら」と思うのは、実は嫉妬なのかもしれない。
あんなにもおおらかに、あまり意味のなさそうなことに時間を使えるなんて。
あれが若いってことだ。

自分も通ってきた道。
そしてこれから通る道。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン
・「では訊くが‥‥」と、
禅問答のようにたずねられるとしましょう。

あなたは、それほどお金を持っていない。
いや、持っているということにしてもいいが、
いくらでも自由につかえるほどのお金を持ってない。
「では訊くが‥‥」
ほんとうに自由に使えるお金があったら、
なにをしたいのだね、どういうことをどうしたいのかね?
こういうことは、他人から訊かれることもないので、
あんまり考えたことがないかもしれません。

そういうお金があったら、なにをしたいのか。
なかなか、気持ちのいい答えは見つかりません。
なんなら、「そんなのいらない」と言うかもしれない。

「いくらでも自由に使えるお金、けっこうだね」と、
きっぱり言える人たちも、たぶんいるとは思います。
いちばん大きなお金を求めているのは、
「もっとお金を稼ぐためにお金をほしがっている人」
なのではないかという気もするんですよね。
最近のことで、すこし話題になったのは、
地球を離れて月旅行というようなことだったけれど、
どうも「それはいいなぁ」とは感じませんでした。

ぼくにも、仮縫いのような考えはあるにはあるのですが、
「いくらでも自由に使えるお金」の使いみちについては、
もっと真剣な「思考の旅」が必要な気がします。

次に、あなたはものすごい才能を持っていない。
世界を仰天させるような才能を持っていたとしたら?
そういう才能を持ってるあなたが、そこにいたら。
そういうことについて、考えたことはありますか。
「では訊くが‥‥」
ボクシングの何階級も制覇したチャンピオンやら、
殿堂入りするような野球やサッカーの選手、
将棋や囲碁、チェスの名人、世界的な作家‥‥。
あなたが、そのような人であったとき、
なにをどうしたいのでしょうか?
これも、ぼくはちゃんと考えてみたことがありません。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
有り余るものについて、いちおう考えてみるのはどうだろ?