藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

あまり多くはないかもしれないけれど。

親は子に、
上司は部下に、
先輩は後輩に、
「何か」を残そうとする。

でも大抵の場合その「一番大切なこと」はなかなか伝わらず、本意は実現されなかったりする。

なぜだろう。


そこにはエゴとか、ひいき目とか、何か「素直な意思疎通を歪める何か」があるのだろう。
子のことを想わぬ親はおらぬのに、その本意はなかなか伝わらないものである。
人は本能以外の部分を強く持ちながら生きているが、そんなことをせぬ野性の生き物たちを見ていればよく分かる。
小鳥でも鷹でも、陸上を動き回る哺乳類も、およそその子たちが"最低限生きるため"の作法を教えるばかりである。
そして皆、まだ頼りないうちに「自立」を促され、大人たちの世界に放り込まれるのである。

過保護の構造。

こと人間に限って。
親が子に口うるさく言うことが、必ずしも子の「生きる能力の向上」に結びついていないことに気づく。

傍目には、もっぱら親の"よかれ"という思いと、強い"エゴ"が見て取れる。

親はその「愛情とエゴ」に正に目がくらみ、"何が本当に子に必要かどうか"を見る目は曇っている。
そんな例は日常的に目にするし、また自分もそうかもしれないと思う。

会社の後輩に何かを話している時、特に"感情的に"話している時、果たして自分は「真に必要なこと」を今話しているのか、それとも「自己を満足させたいがための言葉」を発しているのか、をリアルタイムに吟味するのは中々に難しいものである。
感情、とはそのくらいに人を突き動かす力を持っているのだ、と改めて驚く。


さて、そんな風に"人は感情の動物"である。

感情と事実のずれ。本当に残したいもの。

特に自分の子孫たる血縁者たちに、自分は何をもらい、そして自分は何を遺そうとするのだろうか。

それは恐らく、『希望』だけではないかと思う。

知識とか、体裁とか、財産とか、親は子に「様々なエゴ」を抱く。
けれど、時代は移り、自分たちの時代の価値観は、ほとんど次世代には通じない。
そんな風化した価値観を捨てきれない次世代は、むしろ自分にバイアスをかけ、まっとうに自分の世代を生きられないようなこともある。


どんな状態でも、貧困でも、病弱でも、"希望"を持つことだけはできるのだ、ということ。
希望が持てれば"次の一歩"を踏み出す力を人は持っているのだ、ということだけでも若い人に伝えねばならない。
文明が進むにつれ、周囲のどこを見渡しても一見暗い話、ばかりである。
不思議なことに戦後直後に比べて、この暗さは何だろう、というくらい、現代の人は閉そく感を感じていると思う。
文明が進めば進むほど、無限の発展はないけれど、けれど「希望の種」はどんどん広がっているのだ、という視点を若い人に伝えねば、「最も安全で幸せなはずの世代」が「もっとも迷走する世代」になるような気がする。


人とはタフであり、また贅沢なものである。
常にその"気持ち"に語りかけないと、どんどん弱ってしまうのが心なのだろう。

せめて、次世代に"希望"を遺す。
それくらいは心算しておきたいと思うのだ。