藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

反省の旬。

西暦869年に、先の自信に匹敵するようなM8.4級の地震が起きていたという。
当時で溺死者が1000人を超え、城下町まで津波が押し寄せ、見渡す限りの一面が「青海原」になったという。
そうしていろいろ調べてみると、これまでの「1000年に一度の巨大地震」は実は「600年程度」だった可能性が高いという。

またこの研究をもとに「産業技術総合研究所の岡村行信・活断層地震研究センター長は、東日本大震災が発生する2年前の夏、研究成果を踏まえ、福島第一原発津波対策を見直すように東京電力に対して求めました」との記述には驚く。

実にタイムリーな進言だったわけだが、残念ながら現代の企業は「そのコスト」をかける判断力は持ち合わせなかったわけである。
東電だけの責任ではない、安全とかインフラという対象に「どれだけの準備を蓄えておくか」ということは、今回を機に考える時期に来ているのだろうと思う。
今はまだ傷跡の癒えぬ大災厄も、先の日本が参加した戦争と同じく、事件から半世紀も経てば「経験者」の方が少なくなる。
口伝えに伝承してゆくことも重要だと思うが、社会のルールとして「来る600年後」のために恒久的にインフラという物はどのレベルまで堅牢さが必要か、ということを"地震国ニッポンの基準値"として持っておかねばならないのではないだろうか。

最近は内陸部で地震が起きたり、また首都圏直下型地震などと噂されているが、これも緊張感のあるうちが対策を立てる旬だと思う。
まだこれからの「原発の消滅」を前にして、余分な経済政策に回す配慮や予算は到底ない雰囲気だが、国を挙げてのエネルギー政策と、防災インフラを整備するなら今である。
個人レベルででも始めなければならないと思う。

Q.1000年に1度の巨大地震といわれる東日本大震災、なぜ1000年に1度なの?
A.貞観地震の再来という見方

今から1142年前の貞観11年(西暦869年)、当時の陸奥国(東北地方の太平洋側)を巨大な地震とそれに伴う津波が襲ったという記録が、「日本三代実録」という書物に残されています。

 「日本三代実録」は、「日本書記」から始まり、「続日本紀」「日本後紀」と続く律令国家が編纂(へんさん)した6冊の正史(六国史)の最後の1冊で、起きた時の年号から「貞観地震」と呼ばれるこの津波地震のことを次のように記録しています。

 「貞観11年5月26日、陸奥の国で大地震があった……中略……海では雷のような大きな音がして、ものすごい波が来て陸に上った。その波は河をさかのぼってたちまち城下まで来た。海から数千百里の間は広々とした海となり、そのはてはわからなくなった。原や野や道はすべて青海原となった。人々は船に乗り込む間がなく、山に登ることもできなかった。溺死者は1000人ほどとなった。人々の財産や稲の苗は流されてほとんど残らなかった」(原文は漢文)

 産業技術総合研究所東北大学の調査研究によって、この1000年以上も前の貞観の巨大津波で運ばれた砂などの堆積物は、仙台平野の海岸から数キロ奥まで達していることが数年前に判明しています。しかも、そこまで津波が押し寄せるエネルギーをコンピューターで解析することで、マグニチュード8.4以上という巨大な地震が起きていたことも突き止められていました。「日本三代実録」の記述にある貞観津波による溺死者は1000人ですが、平安時代の人口が現在の20分の1以下の550万人程度だったことを考慮すると、約1000年前の津波による被害は、行方不明者も含めて2万人が犠牲になった東日本大震災に比肩する大惨禍だったのです。このため、貞観地震の再来という意味で、今回の地震が1000年に1度の巨大地震と言われるようになっていったようです。

 貞観地震のような巨大な海溝型地震は、繰り返し起きるとされています。産業技術総合研究所の岡村行信・活断層地震研究センター長は、東日本大震災が発生する2年前の夏、研究成果を踏まえ、福島第一原発津波対策を見直すように東京電力に対して求めましたが、東電の対応はにぶく、原発事故を防ぐことが出来ませんでした。また、研究成果を防災対策に生かすための論議は国レベルでもなされてはいたのですが、具体的に生かす前に「その日」を迎えてしまったのです。


 約1000年前の出来事を記した「日本三代実録」は、他にも多くの教訓を伝えています。貞観地震が起きた「平安時代」は、都が京に移った794年から鎌倉幕府発足までの約400年続きましたが、その「平安」という名称とは裏腹に、860年ごろからしばらくは、地震が多発した「大地動乱の時代」でもありました。

 貞観地震の6年前の863年には越中から越後にかけて大地震が起き、その翌年には富士山と阿蘇山が噴火しています。さらに、貞観地震の前年の868年には播磨の国(現在の兵庫県西部)で大地震が起き、その後も、関東地方で大地震(878年)、出雲で大地震(880年)、そして、東海・東南海・南海地震(887年)……。

 貞観地震の年に京都の祇園で大がかりに行われた御霊会が、京都の夏を彩る祇園祭の始まりだとされています。平安時代の人たちは、貞観地震貞観津波の犠牲者の霊を弔うことを通じて、自然の脅威とそれへの備えの大切さを後世の私たちに伝えようとしていたのかもしれません。

 政府の中央防災会議の専門調査会は9月28日にまとめた報告書の中で、東日本大震災を踏まえた今後の地震津波対策について、「できるだけ過去にさかのぼって地震津波の発生等をより正確に調査し、古文書等の史料の分析、津波堆積物調査、海岸地形等の調査などの科学的知見に基づく調査を進めることが必要である」としています。

 東日本大震災以降、「大地動乱の時代」に再び入ったという専門家は少なくありません。自然の脅威を書き残した古文書、津波の痕跡を今に伝える堆積物、そして、祇園祭のような鎮魂の営み……。それらに目を凝らし、耳を傾けていくことが、いま求められています。



 東日本大震災を受けて、大規模地震が、どの程度の間隔で起きるのかを予測する「長期評価」の見直しを進めてきた政府の地震調査委員会は11月25日、三陸から房総にかけての太平洋沖で、今回と同じタイプの海溝型巨大地震が発生する平均間隔を「600年程度」――と判定しました。

 過去約2500年分の地層に残されている津波堆積物の調査結果から割り出したもので、それによると、この2500年で今回と同様に大規模な津波を伴う連動型の巨大地震は、紀元前4〜3世紀ごろ、4〜5世紀、869年の貞観地震、15世紀ごろ、今回の計5回起きており、今回の大震災も含めた発生間隔は400〜800年。600年はその平均値をとったものだそうです。

 「日本三代実録」という精緻な歴史資料が残されていた貞観地震の発生を踏まえ、「1000年に一度」と言われてきた太平洋沖の超巨大地震の発生間隔は、今後、「平均600年に一度」と言われるようになるかもしれません。
編集委員 堀井 宏悦)

(2011年10月20日 読売新聞)