藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

生活と煩悩。

もうずい分物欲も無くなってきたという自覚があるのだが、それでも「何かに興味を持たずには」いられない、この性格。
自分の家族を見回しても、新聞や週刊誌のスクラップ、とか昭和初期の古本や模型・オブジェの収集、とか、近代思想史や純文学の全集集め、などやはり"追求・収集癖"というのはなくなっていない。

自分は、漫画や本、カタログや映像などの収集に気が行ったが、四十を超えてからは、そのほとんどを断ち、「自分の荷物」は相当に少ないほうだと思っている。
それでも、ピアノやバイオリンを初め楽器は所有しているし、オーディオも気に入ったものを使いたいと思う。
酒も亜硫酸シブシブのワインよりも、数千円で買えるおいしい物を選びたい。

特にお酒などは、外食すれば2-3倍はするものが、酒屋では原価で購入できるお得な商品である。
そうしてワインなどに興味が移ると、今度はそればかり考える。
酒屋で直販、5-6千円のものは、店では二万円近くする高級品。
そうすると、酒屋の進める良いワインを自然と購入し、溜まってくる。
そうすると、特に長期保存の赤ワインなどは「セラー」が必要になってくる。
セラーは高価だし、またかさの張るものである。

また、そうするとグラスも香りの広がる「大きな薄手のもの」が良いし、別に真空保存のための手抜きポンプや、デキャンタージュの道具なんかも欲しくなってくる。

気がつけば、茶道ならぬ「ワイン道」のような態になり、ワインそのものへのうん蓄も欲しくなってきたり。
つまり気がつけば、「また余計なものにこだわる生活」に戻っているではないか。

同様に珈琲を飲む。
これも、最初は周囲の量販チェーンで済ませていたものが、だんだん「自前のドリップで」とか「自前の粗さで」とか「自前の焙煎で」などとなってくる。
そのうち、淹れるお湯の温度とか、その際に使う茶器とか、フィルターとか、ドリップのための給湯のやかんとか、これまた際限なく追及したくなってくる。

自分の友人は、ついに「生豆」をブラジルから輸入することにしたらしいが、一袋が20キロもあり「個人では短期間では消費できない」ということを理由に諦めたという。
豆の質と、焙煎の程度と、粉の挽き方と、ドリップの方法、淹れる水の質や温度管理、さらには嗜むための茶器にいたるまでは「珈琲道」というくらいの複雑な存在になっているらしい。

酒にせよ、珈琲にせよ、食べ物にせよ、結果「お座なりのもの」にはそれほどの深みはない。
逆に、「何かの深み」を備えたものに、自分たちはグイグイと吸い寄せられる性質があるようである。

「モノを揃えること」に興味があるうちはまだ幼い。

もっと内面的な、もっと精神的な"ソフトウェア"に踏み込んでこそ、自分たちは本当の面白さ、をそこに感じるのだろう。

一つでなくともいい、人生に楽しめる「追求できること」をいくつかは探して、一生を過ごしたいものである。