藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

もらって当然。

ある就職座談会に招かれたときのこと。

学生OBが中心になって参加する座談会形式だった。
参加する人のほとんどが、すでに正社員ではなく、しかし「働きたいのだ」と悩みをこぼす。
数人の話を聞いていて間もなく、あれ? と思った。
みな、「最初は正社員として働き」そして「一年以内に"キツくて"辞め」、それからアルバイトなどしながら次の就職先を探しているという。

離職の理由を聞いてみると「残業が月に100時間あった」とか「休日にも仕事で呼び出される」とか「ノルマがきつかった」というものばかりだった。

どうも「嫌な仕事でも我慢する」という気持ちが感じられず、尋ねる。
「次の就職で重視していることは?」と訊くと「福利厚生」「保険、年金制度」「育児休暇や家賃補助」「(子育てなどの家庭事情に合わせた)フレックス勤務」などなど。

移ろう価値観

自分たちも高度成長期さ中の"モーレツ世代"の先輩から苦言を呈されていたが、時代はそんなどころではなくなっている。
"モーレツ世代"は週休一日。
ほとんどの土曜は午前勤務で、その後も仕事がらみの一日が続いたという。

自分たちの世代はそれよりは大分甘い。
基本は週休二日。
さらに時代はだんだんと祝日増加傾向にあり、祝日のある週は土曜日に出勤して穴埋めをしたり。
月のうちに一日くらいは会社行事の研修だの、リクリエーションなどで埋まっていた。
残業も月に200時間くらいまでは、不満一つ言わずしていたし、残業代など出る感覚ではなかったが、それが問題になることもなかったように思う。

では今はどうか。
まずここ20年の労使闘争の結果と、時代の流れだろう。
時間外手当については、ほぼ被雇用者側の完全勝利である。
さらに育児休暇、社会保険、各種有給休暇、フェミニズム制度…という具合に整備が進んてきた。
最近は、"非正規雇"というキャッチフレーズで、ますます企業への負担が増している(というか、そのように政策が運営されている)。
環境的には、被雇用者に申し分なくなっているが、あまり「制度主導にしても実体経済は動かない」というのは、未だ条件闘争は続いているのを見ても明らかである。

それはともかく。

そうした「従業者保護」のおかげで、明らかに働く人たちの「働くことそのものへのモチベーション」は沈下し、権利や保護を当然のように求めるようなマインドを感じてしまうのである。

誰もが円高や不景気を嘆き、その割に対して働く意欲もない。

景気が悪いのは、すべて環境のせいだと言わんばかりで、そんな景気の中でも頑張ってやる、といった気概を、先の座談会の場では感じなかった。

あまり懸命に働く気もない、けれど一定以下の条件では嫌。
昔のように"ひと旗あげてやる"といった荒っぽいが元気のある奴、というのは久しく見ない気がする。

別に年をとったからと言って「昔のやつはよく働いた」と揶揄する気は毛頭ないが、それにしても「この人たちは何を求めていて、何に頑張ってゆくのだろうか」と彼らと話していてとても"薄気味悪い思い"がした。


これからの日本は「こういう感度の人たち」が中心的な存在になり、そうした価値観が支配的になるのか。
その時に日本という国は世界の中でどんな風に見えているのだろうか。
それはひょっとしたら、今のアメリカのような「頑張って富む人と貧困層」のような極端で諦め感の強い"超ひがみ社会"なのではないだろうか。
税金や年金制度など、「暮らしやすいための制度」は重要だが、そんな制度ありき、の社会ではいずれ「制度もたれ」の人が大半になってしまうのではと危惧する。

「もらって当然」という感覚こそ、自分たちが最も戒めねばならない感性ではないだろうか。