藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ケジメのつけ方。

悪は巨大なほど裁かれにくい、と言われる。
その最大のものが戦争だろう。
政治家の汚職とか、企業の不正などもしばしば起こるが、そうした事件は当事者が分かりやすいのだが、国家賠償などが絡む事件は、ここ数十年でも多数起きているし、また決着が長引く。

JRの脱線事故で歴代の社長の責任が問われ、また国交省の責任にまで追及されるのは、論理的には分かるが、感覚的にはずい分と迂遠な気がするのである。
典型的な先の震災や、原発事故でも国の責任、企業の責任、行政の責任、そしてどれをとっても責任など十分取りきれるものではない、ということを再確認するばかり。
原発事故は「人災」とする事故調の報告が出たが、さらに一年余を経て、まだ「さらにその人災が広がっている」ように思う。

受任論には触れず

そうして、古い話の決着もまだ付いていない。
東京大空襲の損害賠償、と聞いて驚いたが、「軍人や原爆被害者の補償に比べて」原告が提訴したものだという。
それにしても、(そういうものかも知れないが)裁判所のいう

高裁判決は「多くの被害者の中から救済対象者を選ぶのは困難であり、立法を通じて解決すべき問題」とした一審判決の基本的な考え方を踏襲した。

という。
さらに

これまで50兆円以上の国費が支出された旧軍人・軍属との差について「不公平と感じることは心情的には理解できる」と述べつつ、全国各地に補償を受けていない戦争被害者が数多くいることから、原告らが不合理に差別されているわけではないとした。

つまり「全国各地に補償を受けていない戦争被害者が数多くいることから、原告らが不合理に差別されているわけではない」ということは、「国と言うのは戦争被害をすべて補償する気はない」ということである。
さらにさらに、

「戦争の損害は国民が等しく我慢しなければならない」とする「受忍論」には、一審判決と同様に触れなかった。

これで何か一歩先に踏み出せるだろうか。


本当は、自分たちも参加し、大戦の戦争責任とか、東京裁判とか、日米安保とか、これまで多くの人が挑戦してきた問題に「ある決着」をつけねばならないのではないだろうか。
そして、そこでは今さら「歴史を考証して真実をほじくり返し、司法で裁くということ」が目的ではなく、「日本国としては、こういう風に考える」ということを一旦決算して宣言することが必要だと思うのである。

特にここ十年の大きな経済的事件、政治改革、人災、天災を見るに、その責任の所在なさ、責任者の”グダグダ感”に一番幻滅しているのは国民である。

そして、でもその「責任者」は国民一人一人の姿の集合体であることも、自分たちは気付いているのである。

いっちょここらで「そういう生き方」を見直す時期に来ているのではないだろうか。
ここから変えていく。

東京大空襲の損害賠償訴訟、原告が二審も敗訴
1945年3月10日の東京大空襲による被害者や遺族ら計113人が、謝罪と1人あたり1100万円の損害賠償を国に求めた訴訟の控訴審判決が25日、東京高裁であった。鈴木健太裁判長は、請求を退けた2009年12月の一審・東京地裁判決を支持し、原告側の控訴を棄却した。原告側は上告する方針。
東京大空襲では一晩で約10万人が死亡したとされる。原告側は、旧軍人・軍属や原爆被害者らには手厚い援護・補償があるのに、空襲の被害者に何の補償もないのは不平等だと主張。救済のための法律を作らなかったとして、国の責任を追及していた。
高裁判決は「多くの被害者の中から救済対象者を選ぶのは困難であり、立法を通じて解決すべき問題」とした一審判決の基本的な考え方を踏襲した。
そのうえで、国のこれまでの救済対象が不平等かどうかを検討。これまで50兆円以上の国費が支出された旧軍人・軍属との差について「不公平と感じることは心情的には理解できる」と述べつつ、全国各地に補償を受けていない戦争被害者が数多くいることから、原告らが不合理に差別されているわけではないとした。
国側が主張していた「戦争の損害は国民が等しく我慢しなければならない」とする「受忍論」には、一審判決と同様に触れなかった。