藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

甘えないこと

Nikkei、冨山和彦さんのコラム。

50代、60代が苦労せず(つまり団塊がトップ)、と断罪した上で「40代の役割」について言及する。
この見立てに、とても共感した。

50、60代については、戦後に形作られた「モーレツ世代」の轍の後を追い、絶対的な価値観を作り上げられずにいたのだろう。
冨山氏は「成功体験に縛られた世代」と表現しているが、つまり「環境の変化に対し、ダイナミックに動く遺伝子のない世代」ということである。

70代以上と比べれば、全然苦労していない。生きるか死ぬか、というギリギリの状況にも追いやられていない。だから勉強もしていない。思考に深さがない。

バッサリ、だが小気味よい。
また今の三十代以下の世代は、勉強もしているし「草食化するしたたかさもある」と前向き評価もされている。
確かに、50,60代の目上の人と話していても、結構硬直した話になることが多い。
「出来ない理由を探す」といったらいいだろうか。もちろん一概には言えないが。
若手に「やれる方法を考えろ」と言った方がよほど素直でもある。

自分は世代間の感覚はあまり強くないタチだけれど、夫々の世代が負う性質というのは、特に自分の世代の宿命として考えてみるのは、自らの行動を方向づけるのにも役に立つ。
そういう視点も自分を見る一つの方法である。

 若者の失業率が世界的に上昇しています。人口増と生産性向上を前提として作られた経済モデルのもとで、その前提が崩れてしまっているのが今。結果的に、若者がツケを押しつけられているのです。しかし、このまま若者が疲弊すれば、未来はありません。わかっているのに変われない。まさに民主主義のジレンマです。

 日本の労働市場は、世界でもより硬直的といわれますが、これには理由があります。戦前の日本は今よりはるかに自由な労働市場があって、あまりに流動性が高すぎたのです。これでは企業内にノウハウも蓄積できず、熟練工も生まれない。その危機感から戦後、家族主義的政策が採られ、そして、これが極めてうまくいきました。

 しかし、ある時期にうまくいったことが、永遠にうまくいくわけではありません。これは社会制度然り、ビジネスモデル然りです。それは時代の必要性に応じて作られたものだから。ところがある時期を過ぎると、制度の維持自体が目的化していきます。日本的経営はその典型例でした。日本経済は成功モデルの呪いから、今なお抜けきれていません。

 家電メーカーが苦戦していますが、それは付加価値の高いものも作れなければ、価格の安いものも作れないから。例えば、「画像が大事」という何十年も前の価値観に今なお縛られて、せっせとそちらへ向かう。しかし、これ以上の画像レベルを求めている人がどれほどいるのでしょうか。求められているのはまったく別の価値なのです。
 実は、市場が何を求めているかは頭ではわかっているのです。ところが、その方向へ向かえない。それは、もはや戦うゲーム自体が変わってしまっているから。野球からサッカー、くらいに。優劣の問題ではありません。大リーグの有力選手でサッカーチームを作っても強くなれないのと同じ論理です。問題は、頭でわかっていても身体がついていかないことです。

 成功体験の恐ろしさは、頭を縛るのではなく身体を縛ることです。では、何が必要なのか。プレイヤーを入れかえることです。野球選手を退場させ、サッカーのプレイヤーをフィールドに入れるのです。成功体験に縛られない、30代以下の若者たちです。

 ここで重要な鍵を握るのが40代です。40代を挟むふたつの世代には明らかな断絶があります。育ってきた時代背景と、ITはその象徴です。そしてこの2世代を両方理解できるのが、40代なのです。

 これは私自身の自戒を込めてですが、今の50代、60代は最低の世代だと思っています。70代以上と比べれば、全然苦労していない。生きるか死ぬか、というギリギリの状況にも追いやられていない。だから勉強もしていない。思考に深さがない。逆に30代以下の若者たちは、時代の荒波に揉まれて苦労して生きてきました。お気楽な感覚などない。だからよく勉強もしているし、よく考えている。バッシングを避けるために草食化するしたたかさもある。

 50代以上の古い価値観の人たちに荷担するのか、それとも30代以下の若い世代に未来を託すのか。両者をうまくコントロールし、一気に世代交代を推し進められるかどうか。実は40代は責任重大なのです。

1960年生まれ。東京大学法学部卒。在学中に司法試験合格。スタンフォード大学MBAボストンコンサルティンググループを経て、コーポレートディレクション設立に参画し、のちに代表取締役社長。産業再生機構COOを経て現職。