これほどエピソードの多い人も珍しい。
流行語の「巨人・大鵬・卵焼き」もご本人は好きではなかったという。
70台も血液運搬車を贈り続け、常に奢らず。
大鵬のすごさは、そこにあったようである。
普通の人は、今日やったことの結果をすぐ欲しがるけれども人生は生まれた時から“一つの時計”が回っているんだよ
「最後の最後にいい結果を生む」というのは儒教精神のようだが、それにしても報道記事はその人柄に焦点が当たっている。
同じ死ぬならこうあれかし。
現役時代はその強さに「あまりに憎らしい」と言われた人は、その優勝回数や記録ではない"人格"でその名を残している。
自分を一つの時計、と捉えた大鵬の遺志を自分たちの誰かは継げるのだろうか。
なくなって知る英雄の物語がまた一つ。
「天才でもスターでもない」 横綱大鵬、努力の人
昭和30年代半ばから「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれた。これは子供が共通して好きなものばかり。実は大鵬さん、この「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が好きではなかった。巨人が、というより巨人の長嶋茂雄選手と同列に見られ引き合いに出されるのが嫌なのだ。「あの人のような天才でもなければスターでもないんだ。私は野村克也捕手のように下から苦労してたたき上げた努力家なんだよ」とむきになって天才説を否定したものだ。
ライバルの横綱柏戸が最大の理解者であった。「大鵬は人に言えないたくさんの労苦を忍んできた。猛稽古による根性だけではない。あれは幼いころから鍛え抜かれ、身に付いた根性だろう」
脳梗塞で倒れたのが36歳。その2年間だけは中断したが「大鵬慈善ゆかた」などの販売収益で日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を贈り続けた。その数70台。こうした功労に「世界人道主義賞」を贈られたが、これに対し大鵬さんは「脳梗塞の後のリハビリの努力も評価されたことがうれしかった」という。
2000年8月、本紙に「私の履歴書」を連載した。読者から寄せられた手紙の多くは「ただ強くて憎らしいと思っていたのに、こんなに苦労されていたとは」と驚きを語るものだった。
樺太の敷香(しすか=現サハリンのポロナイスク)で生まれ、5歳で命からがら脱出、白系ロシア人の父と生き別れ、北海道を転々とした。
16歳で入門、1日四股500回、鉄砲2千回などという猛稽古に耐えた。若い力士に、そんな話をしながら最後に「そんなことはなにほどでもないんだよ。戦争に命をささげた若い人たちの辛酸を忘れちゃいけない」と付け加えた。晩年は相撲協会のご意見番的存在だった。人柄であろう。
「相撲でいえば入門した時からずっと努力と鍛錬を積み重ねて、最後の最後にいい結果を生む。普通の人は、今日やったことの結果をすぐ欲しがるけれども人生は生まれた時から“一つの時計”が回っているんだよ」。取材する方は、後悔に身をよじるばかりだ。
「大鵬」とは、よく命名したものだ。一羽ばたきで何万里も飛ぶといわれる想像上の鳥である。19歳で新十両に昇進、地元では「摩周岳」や「屈斜路山」がしこ名として考えられた。「北の富士」もあったという。
しかし中国の古典好きだった師匠の二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)は「いや、そんな小さいものではない。納谷にはもっといいしこ名を考えている」と長年温めてきた「大鵬」を披露したのだった。優勝32回の功績とともに偉大なその名は永遠に語り継がれていくことだろう。(編集委員 工藤憲雄)